ブログとホームページ制作歴
20年にわたるブログとホームページ制作歴
初めてつくったホームページはゲーム(ドラゴンクエスト)のファンサイトでした。
……こんなイラストをいっぱい描いていました。
それから、クラシック音楽の批評・感想サイトを。ラフマニノフやフォーレが好きでした。アルヴォ・ペルトの「ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌」を絶賛していました(現在はモーツァルト一筋です)。
それから、イラストのサイトをつくりました。
自分が多くの人と違っていること、ことばが不自由であることに不安をもっていたとき、「異端者の砦」というメンタル系のサイトをつくり、内面を吐き出しました。
その後、アスペルガー症候群を診断されました。
2011年から2013年、STIGMA FREEという自閉症スペクトラムのブログをつくりました。
その頃は、職場に適応できず、惨めな私生活を暴露するのがいたたまれなくなって(今もですが)、やめてしまいました。
また、文章があまりに未熟で、人目にさらすことに耐えられなくなりました。
で、長期間放置……。
そのあいだ、描きためた絵のポートフォリオとなるホームページをつくりました。
それから、詩の作品ブログをつくりました。詩作品だけをアップするという。今もですが、当時の作品は目を覆わんばかりにヘタクソでした。アクセスもほとんどなく、人目にさらすことに耐えられなくなり、閉鎖しました。
けれども今度こそと、もう一度詩の作品ブログをつくりました。これは、WEB上の詩集のようなものでした。しかし、やはりアクセスがない。寂しく、また詩を書く意義がわからなくなり、放置するようになりました。
らくがきやスケッチがたくさんあるので、絵のらくがきを手軽にアップできるページをつくりました。
さらに、抽象画など小品を発表するホームページを。
そして、現在に至る――。
私の最大のバックグラウンドである自閉症スペクトラムについて表現でき、なおかつたまっていく一方の作品を発表する場がほしかったのです。
ためこんだ日記はすでに50冊。これをどうすればいいのか――。
【記憶の塔】
怒濤の保存が行く手をさえぎり
執念の塔となってそびえ立った
(日記四九冊)
(素描三四冊)
(生活二一冊)
(会話一七冊)
(研究八冊)
記憶×××冊
オドロオドロシイグチャグチャの
シドロモドロシイメチャクチャが
わたしを救い出してと絡みついて
覚え違いがあってはならぬ
ただひとさじのもれも許さぬ
すべてすべてを刻みつけてと
足もとにむらがりまとう
(コレヲドウスレバ)
振り向く背後に高殿が
うなりを上げて積み上がる
歩を進めるほどあわれな我執の頂が
再生の映像を載せて
新記録を更新する
(積載重量突破)
天を衝く建設
壊れた脳髄は保存を手放さない
明日は到来を尻込みする
(忘レラレナイ)
電脳空間に撒き散らして回収
赤面の残骸がふたたび頂を高くする
聖書の字句は皮肉を贈る
(蔵ニ収メズ)
オドロオドロシイグチャグチャの
シドロモドロシイメチャクチャが
蔵の扉を突き破る
執念の高殿は
明日の塔を形成する
(2018.9.19)
私は話しことばが不自由で、一般の人のように普通に話すことはできません(ことばの意味を即座に理解したり、内面を表現するのが難しい。筆記で補わなければならない)。病気や障害の関係で、外に出て、人と話す機会がほとんどありません。
だから結局、文章や絵を書/描くしか、自分を伝える手段はありません。
けれども、自己表現した文章は、特異な感覚が散りばめられていて、他人に共感されにくい。とくに詩は。
詩のブログをつくり始めた頃から、共感されない/読者がいない/アクセスがないことが悩みの種でした。誰も見てくれる人がいないということは、本当に寂しい。
日常的に会話ができれば、ここまで悩まないのでしょうが。
だから、たった一人でも、文章を読んでくれる人がいるならば、私にとっては貴重な存在です。
自己表現しか……………………ない。
命が満ち溢れるように。
outputしないではいられない。
だからブログやホームページをつくるのです。
で、また閉鎖するのか……?
今悩み、考えているのは、このブログを続けるか、以前のブログ「STIGMA FREE」をリニューアルするかということです。
STIGMA FREE - FC2 BLOG パスワード認証
を鍵つきにして公開(限定公開)にしているわけは、
- 不適応がひどかった時期の私生活を公開した記事がいたたまれない
- 文章が未熟すぎる。見るのも嫌(時間が経つとなんでも未熟に見えて削除したくなる)
ので、公開できないのです。
ただ、fc2のブログは使いやすくて、書き続けるモチベーションが維持できました。はてなブログはまだ使いこなせていないこともあり、いまいちモチベーションが上がりません。
どちみち、「自閉症を主題にした散文や詩」「描きためた絵」の基地はつくりたいので、どちらかに統一するか、どちらも公開するか、考え中です。
……まぁそのうち、モチベーションが完全に落ちてしまうかもしれませんが。ブログを書き続ける意欲を維持するのは、難しい!
↑のブログの、更新モチベーションは、ほとんどなくなっています。詩が書けない……。
開通―コミュニケーションの封鎖が解かれるまで― 4 文学会でチャンネル開通
それから間もなくして、不思議な出来事が起きた。
私はある文学会で、詩や体験記などの文章を発表していた。
ある日、横光利一の『花園の思想』を朗読した。それは、テキストの文字を目で追うと、映像が鮮やかに浮かび上がる迫真の描写だった。
保険証の一件以来、コミュニケーションできない無力感に打ちのめされていたが、鬱状態でグッタリしていた心はムクムク起き上がり、目の前の世界を掴まえようと目を凝らし始めた。だが、何を意図してこの作品が書かれたのか、作者の美学を理解するには、しばし時間を要した。
「何が言いたいんだろうねえ、この小説は……」Sが私の考えを汲みとるように言った。
「ですよね。今…同じことを…考えていました。いまいち作者が…何を言いたいのか……」
私は舌の重さを感じながらSに同調した。意見の一致をみて、voice(音声)の溶けた空間に体を波乗りさせる運動感覚が少しずつ立ち上がってきた。〈卵の殻〉の内部では、外界の事物が目に見えていても、現実感が乏しい。そこで、世界が存在する実感を得るために、テキストの気になったことばに丸をつけたり、傍線を引いたりして、ガンガン書き込んだ。手や口を動かすと、波乗り感覚はいよいよ加速して、文字のことばもvoiceのことばも届きやすくなった。
「死の美学について言ってるんだよ」とK。
「『これだ』(主人公の心の声)ってことを…言いたいんでしょうか? ……花のような…死の美しさを?」私は考えながら、訥々と答えた。
こうしたやりとりを交わしながら、急速に自分を取り戻しつつあった。話者のvoiceを足掛かりにして、解読したい〈世界の意図〉が、地図の巻物が解(ほど)けるように導き出されていくのだ。
ついに〈input通用門〉は開き、意味が姿を現した。ここが門のある場所だ。こうして情報が入りやすい位置と角度を掴んでいれば、〈世界の意図〉にアクセスし、手繰り寄せることができる――。
なぜ開通したのだろうか? 考えられる条件をひとつひとつ点検してみた。
(1)Sと同位置で対象に向き合った時、世界を解読しようとする〈姿勢〉、情報にアクセスする〈構え〉が生まれた。
(2)自分と似たようなことを考えていたKのことばは、私が世界を解読するチャンネルに照準を合わせるのを手助けした。
(3)小説の描写が優れていて、心が引き込まれ、「これはどういうことだろう」と知りたい好奇心に駆られた。
(4)小説の文中に「把握力」ということばが出てきて、「それ、いま考えてたとこだよ!」と心に印象深く記銘された。
(5)私は重厚なテーマについて考えを深めるのが好きだった(小説のテーマは「死」だった)。
こうした条件は、二つの機能(働き)を想起させた。〈アンテナ〉と〈チューニング〉である。〈アンテナ〉は、情報を効率よく取得するための(興味関心という)手段。〈チューニング〉は、同調回路を取得する姿勢の調整。すなわち(1)(2)が〈チューニング〉、(2)(3)(4)(5)が〈アンテナ〉のイメージに重なるのだ。
まず、対象世界が私の意識に到達する強い訴求力をもっていた。そして、近い目線で物事を見る人間が、世界を解読しようとする私と姿勢を同じくした。私はその人とともに、対象世界を解読しようと強い関心を抱いた。
こうした引力の総合によって、世界の解読は可能になった。
朗読が終わり、自作品の意見交換をした。
私はこの日、自閉症の聴覚過敏を考察した小論文「〈定位〉から考える聴覚過敏」を発表した。原稿には、「『音の意味』がわからないとは、(中略)自分に関係づけられるはずの意味内容が理解できないということです。」という記述があった。ここでは、話しことばを受けとった時に、発信者の意図が通じない現象が話題になった。
「ことばの意味ね。声、聞こえてるはずなんだけど、聞き流してしまうことがある。自分の中にことばとして用意されてないと……」Sが自分の体験に絡めて感想を述べた。
「ああ…私にもそういう時があります」世界の意味を手繰り寄せようとロッドを伸ばす私の〈アンテナ〉は、Sの意見に傾いだ。
それからTが「統合失調症ではないか? 似てると言えば似てる。思考のズレ、断裂の要素が含まれる」と指摘した。
「ダンレツ?」
私が聞き返すと、Kが横やりを入れた。
「ものに対する抽象的概念」
「意味の現れ方が断層化していくということでしょうか?」
つぎつぎに現れることばを掴まえては広げた。意味、ズレ、断裂。こうしたことばは、哲学を好む私には親しく感じられた。私の対象世界を解読しようとする強い関心、物事を分析する意欲を駆り立てる他者のことばが、封鎖されていたコミュニケーションのチャンネルをこじあけていった。思考に向かう私の意志、すなわち〈アンテナ〉に、これを刺激する他者の問いかけが触れた時、意志に導かれた触手を伸ばすことで、情報を同期(シンクロ)させる姿勢は微調整(チューニング)され、チャンネルを開通させることができた。萎(しな)びた会話機能は賦活されたのだ。
このやりとりの後、Kは自分の病気について打ち明けた。
「病気してる時は記憶できなくなる。アレなんだったかなーと。だから忘れないように記録する」
この発言は私の〈アンテナ〉を立てた。第一に、Kが趣味の話題以外の自分語りをすることは珍しかったから。第二に、記憶の取り扱いに悩まされる私には、考えさせられる教訓を含んでいたから。こうして〈アンテナ〉が立つと、効率よく情報が入ってきて、Kの意図をうまく把握することができた。
開通しかけていたチャンネルは、さらにその間口を広げていった。
開通―コミュニケーションの封鎖が解かれるまで― 3 少しずつ通じ始めた
それから数日後、近所の歯科クリニックに出かけた。
歯科衛生士から歯の磨き方を教わりながら、ことばを逐一ノートに書きとった。衛生士の舌は素早く回転して、台本がないのによくこんなにしゃべれるなと感心した。母国語であっても、ノート筆記しながらでなければ、即座に理解することはできなかった。
それでも、うん、うんと頷いたり、「そうなんですかー」と適当に相づちを打ったりして、分かったフリをしているうちに、始めは空疎な演技だった会話の応酬に意味が流れ、その中に同化するような気がした。すると、断片化されたvoice(音声)はつながっていき、立体的な像をもって立ち上がってくるのだった。
さらに二週間後、印象的な出来事があった。
以前から詩を書いていた私は、ある詩投稿掲示板を数年前からROM(リード・オンリー・メンバー。見るだけで参加しないこと)していた。その掲示板の重鎮kankanにコメントを送った。
kankanは他人の作品をケチョンケチョンにけなす。詩作への向上心ゆえに、全身で投稿者に挑みかかる。近寄りがたい。下手な詩を発表したり、読みを誤ろうものなら、手ひどい痛罵を浴びせられるに違いない。それでも、彼女の詩作の姿勢には惹きつけられるものがあり、話しかけてみたいと思っていた。
そんなある日、投稿された彼女の新作を何度か読み返してみた。そこには、ある目の病気のために視界が白濁していく哀切が描写されていた。コミュニケーションのチャンネルが閉ざされていく自分の心境に重なり、胸を突かれた。癖のある難解な詩だったが、意味が明瞭に伝わるように思った。ついにパソコンの向こうの見えない顔に向かって、詩の解釈と批評を述べたコメントを送信した。
kankanから返事がきた。その文章を読んで総毛立った。いつも句点の代わりに欧文のピリオドを用いる独特の文体をもっているkankanは、己のスタイルを封印して、句点を使って返信してきたのだ。まるで居ずまいを正して、私に敬礼したかのように――。
通じた!
話しことばのvoiceを使わなくても、遠く離れた人間に意思を届け、受けとることができる――。
封鎖された〈卵の殻〉の天空は、時空にかすかな揺らぎを生じ、台風の目のようなチャンネルの穴が穿たれた。その細いトンネルは、しゅうしゅうと何かの気体(エネルギー)を吐き出している。Kankanの意思はあそこからやってきた。もう少しだ、もう少しだ――。
みずからを励ました。
開通―コミュニケーションの封鎖が解かれるまで― 2 input(入力現象)を阻害している要因
何かがinput(入力現象)を阻害している。
inputが滞るのは、ふだんから絵や文章で表現している自分の内面世界に、独特のoutput回路が回っているのかもしれない。
このoutput回線は、心の地底から渦巻き、上昇し、ある地点を出口にして放出されている。inputはoutput回線の一部に穴を穿つようにチャンネルをつくり、そこから流入してくる。output回線が先に出たがっていて、input回線が入る場所を決めかねている。そんなイメージを思い描く。(図1)
input回線が入る特定の場所がある。ここを通過する情報はすんなり入るが、位置がズレるととたんに理解できなくなり、コミュニケーションが詰まる。
たとえば、「チャンネルに合う」と感じられる文章はスッと頭に入ってくるが、「チャンネルに合わない」文章はただの文字列に見えてしまうことがある。
inputを阻害している要因を挙げる。
(1)感覚刺激の飽和
私は聴覚が過敏で、受けとる情報量が膨大だ。許容される範囲を超えて刺激が入ってくると、自己意識が押しやられるように圧倒されてしまい、input回線が入る余地はなくなる。
(2)細部追求して前提・文脈を喪失する
たとえば、本を読む時は些細な字面に、話す時はことばの断片に引っかかり、ルーペに映る像のように細部が拡大され、ポワーンとバカでかく迫ってきて、全体像を捉えられなくなる。著者・話者の言わんとしている〈前提〉に辿り着けず、文脈を求めて彷徨(さまよ)う。
(3)大量の感覚と思考による記憶の複雑化
感覚はinput情報ばかりでなく、自家生産される情報も含まれる。刺激が多いうえに思考の量が多いと、複雑化した記憶は蓄積される一方だ。あまり物事を複雑に考えすぎたり、葛藤しすぎたりすると、感覚と思考を処理するための頭脳の空きスペース(コンピュータでいうRAM)が散らかり、圧迫され、新たな情報を書き込めなくなることも。
(4)イメージの不在と流動するLIVE情報への不適応
私は静止している画像や文字など、目に見える対象から理解を得ている。話しことばなどの流動するLIVE情報は、リアルタイムで同期(シンクロ)して把握しづらい。
(5)会話力低下
会話が不自由な私は、思索の言語世界に沈潜しすぎて話しことばが出にくくなる。舌を動かして発声する言語と頭の中の言語はコードが違うらしい。
(6)予想外の事態や予定変更
不意打ちや突然の衝撃に弱く、とっさに切り替えて対応できないため、「○○するつもりだった、したかったのに」という心づもりが外れると、ハンドル(分からないものに名前をつけるなど、自分なりの秩序構成)をつけて操作しようとしていた世界の枠組みが一瞬、初期化されるようなショックを覚えて、inputどころではなくなる。
以上、六つの要因を述べた。
冒頭場面において、コミュニケーションが封鎖されたわけはこうだ。
会話力低下(5)の弱点によって話しことばを聞きとれなくなっても対処できるように、私は見えないvoice(音声)を筆記して視覚情報で補ったり、「模型」(この場合、古い保険証の両面をカラーコピーして貼り合わせたもの)を準備したりして、非常時に備えていた。にもかかわらず、事務員のことばを理解できずに、予想外の事態(6)の衝撃が加わった。
事務員の、ことばを発する認識は、おそらく一瞬一瞬消えゆく「話し音楽(スピーチ・ミュージック)」の一部になっており、事務員はその音律の中で、意味を即時的に流通させていた。そのことばから、私は停止して留まるイメージを掴みとれなかった。見えない情報は理解しづらい(4)の困難は大きくなった。
こうした事態を把握しようとしたが、ことばが断片化する(2)の罠に落ちた。膨らむ思考を一遍にまとめることができず、過去の思考も現在の思考を圧迫して、記憶の複雑化(3)の中でもがいた。これ以上inputが入らない感覚飽和(1)に陥った。
このように、要因が複雑に絡まりあってinputを阻害し、コミュニケーションの回路を封鎖させた。
開通―コミュニケーションの封鎖が解かれるまで― 1 話しことばの意味が消えた
「○月×日に診察した分が、資格取得日に入っているかどうか……」
病院の事務員が難しい顔で呟いた。
○月×日の三週間前、ある事情によって保険証の資格を喪失した。継続して使えるようにしなければならないが、今は手元にない。病院で診察を受けた後、その事情を伝えると、このように説明されたのだった。
spoken language――話しことばがクルクル空中を舞っている。人間のvoice(音声)を意味とともに同期(シンクロ)しながら受けとるヒアリングは、私の場合、時々使いものにならなくなる。つまり、会話できなくなる。
「……えっ?」
「○月□日からだとダメ」
「○月□日???」
事務員のことばをオウム返ししても分からない。
時間は目に見えない流れをもったLIVE情報(記録された情報に対して、現在進行中の生情報)であり、流れを流れのまま捉えなければならない。日付や数字で表された時間軸を指示することばは、画像化されにくい。「○ガツ□ニチッテナニ」という自分の思考と、「○ガツ□ニチカラダトダメ」という他者の声が脳内で混線して、世界に働きかける意志がしだいに背後に押しやられていく。
「シカクシュトクビハイツカラ」「シカクシュトクビハイツカラ」「シカクシュトクビハイツカラ」……
事務員の口から、ATM音声のように、同じことばが繰り返される。ひとつひとつはとても簡単なことばなのに、伝わってくる内容がない。バラバラに分解されたことばの断片は、意味がまるごと抜け落ちて、sound(音)そのものになっている。
なんのテーマについて話しているのだろうか? 話題のインデックスに当たるテーマが見えない。文脈の主語が姿を隠し、述語が遊離しているようだ。「シカクシュトクビハイツカラ」という一言だけが文脈から離れ、プカプカ空中に浮かんでいる。
事務員は困惑の表情で固まっている私に、辛抱強く説明を続ける。
「その………、…………に、………………でェ、………………………………すよ」
「え? え?」
廊下に不気味にこだまする呪文のような響き。圧(お)されるままの意志が、soundに秘されたコードを解読しようと格闘する。
――このままではまずい。
鞄からノートを取り出し、事務員のことばを聞こえる順番通りに記述していく。そうやって文字にすれば、かろうじて「自分は今、何をしなければならないか」方向性を掴むことができる。しかし、耳に届くことばの順番を頭の中で入れ替えることができない。ことばの音の配列に縛られて、意味は浮上してこない。
突然、足元に地割れが出現する。足をとられて吸い込まれる。裂け目は下半身をがんじがらめにする。――これは私の心象風景であり、実際、病院の待合廊下にそのような自然現象が発生したのでは、もちろんない。けれども、心のスクリーンにはこのような映像が浮かび、現実に体感される。
前後に崖のような壁が迫ってきて、視界が真っ暗になる。
――ことばが通じない時、どうやって対処してきたんだっけ……?
今まで積み上げてきた「知恵」が一瞬、白紙さながらのタブラ・ラサ(何も書かれていない書板。感覚的経験をもつ前の心の状態)になる。ここが〈穴〉だ。〈穴〉にはまった。
今度は〈卵〉が出現する。全身を覆う〈卵〉の内部に閉じ込められる。〈卵の殻〉は硬く、両手を使ってガンガンたたくが、内側から割ることはできない。工具を手にとる。金槌で割る。スパナを投げる。ドライバーでこじあける。ビクともしない。
何もかもありすぎるのに何もない。それを表現する方法がない。――言語のない世界。
〈卵の殻〉は体の周囲から世界の縁まで拡張していき、自分をとりまく空間そのものになる。頭上に殻でできた天空が出現する。天空には外部の世界に通じるチャンネル(通路)があるが、勢力の弱まった台風の目が見えなくなるように、平らになって消えていく。
これがコミュニケーション封鎖の感覚だった。
私はこの感覚を医師に伝えようとして、声を詰まらせながら、必死の説明を試みた。
「以前う…うまくしゃべれたはずなのに…しゃべれなくなった……。分からなくなった。このままこ…ことばがなくなったら……」
「枠を感じるんでしょう? リジン。リカク。分かります?」
「……離人。離隔。分かります」
リカクという医師のことばは、頭の中で、すぐに「離隔」という漢字に変換された。一瞬、医師の視線の先にあるカルテとパソコンが視界に飛び込んできたものの、深くうつむき、コミュニケーションのチャンネルが遮断された私には、何も把握することはできなかった。しかし、消えかかりつつもかすかにあいている〈卵の殻〉の穿孔から流れ込む、ほんのわずかなことばの意味が、まるで水のように、封鎖された世界に染み渡った。細い細いトンネルの隙間を通って、それはたしかに意味を携えて、意識の内部にこだました。
〈定位〉から考える聴覚過敏13 まとめ 能動的構え
ほかの聴覚過敏の原理に当てはまるかどうかわかりませんが、私の聴覚過敏においては、まず定常位置の転覆を驚愕する心があり、みずからの定常位置へ同化/異化する選別作業としての摩擦と刺激が多くなっている様子をみてきました。その選択の前段階としての対応に追われるために、本来的な選択的注意ができにくく、能動か受動か構えを決めかねて、姿勢が不安定になっていました。
「火に油を注ぐ」原始的不安や正体不明の音が一切ない「安定しきった」状態においては、地震が起こる前段階を思わせる動揺にとどまりやすいですが、とりわけ音の意味が不明瞭である場合、理解しうる意味を求めて想像力と幻想の過剰補完が起こっていました。
定常位置の転覆を驚愕する人間の聴覚過敏では、地上に布置する生物・無生物との関係(ネットワーク)において、自分の位置を定立する<定位>が失敗、あるいは不確立、あるいは転覆していました。そこでは音を受け止めて反応(レシーブ)する体勢が不安定になっており、しばしば受動状態で劣位になり、構えが崩れ、ドミノが倒れるように聴覚過敏が引き起こされました。
こうした劣位から体勢を立て直し、「火に油を注ぐもの」をコントロールして<定位>を確立するためには、幻想の過剰補完を減らし、腰をかがめて両手でバレーボールのスマッシュを受けるように、あるいは打席でバットを構えて投球される瞬間を待つように、能動的構えをとるのが最重要であると私は考えています。
文献
1)デービッド・M・バグリー/ゲルハルト・アンダーソン(中川辰雄訳):聴覚過敏. pp.25, 海文堂, 2012
2)甘利俊一(監修), 中川聖一, 鹿野清宏, 東倉洋一(共著):音声・聴覚と神経回路網モデル. オーム社, 1990
3)山内昭雄, 鮎川武二:感覚の地図帳. 講談社, 2001
4)甘利俊一(監修), 田中啓治(編):シリーズ脳科学2 認識と行動の脳科学. 東京大学出版会, 2008
5)コンディヤク:感覚論(上). 創元社, 1948
〈定位〉から考える聴覚過敏2 〈定位〉の発見(1) この世界と私の身体の接地点
〈定位〉から考える聴覚過敏3 〈定位〉の発見(2) スルリとはまり、なじむ
〈定位〉から考える聴覚過敏6 音を受け止めてレシーブする選択的注意
〈定位〉から考える聴覚過敏9 こだわる固体の固着とこだわらない気体の流動
〈定位〉から考える聴覚過敏10 火に油を注ぐもの(1) 不安
〈定位〉から考える聴覚過敏12 刺激に意味を求めるか否か
「音の意味」がわからないとはどういうことでしょうか。
意味とは、価値・重要性・意義という意味を除けば、「記号(特に言葉)の表す内容」「ある表現や行為によって示される内容、特にそこに含み隠されている内容」(明鏡国語事典)です。つまり、表現や行為や物事などに含まれる理解可能/不能な内容です。
「音の意味」がわからないとは、音刺激に含まれる、しばしば自分に関係づけられるはずの意味内容が理解できないということです。
聴覚以外の感覚刺激に、私たちは意味を求めるでしょうか。
嗅覚は主に、対象が食物や化学物質として体内に摂取可能かどうかを判断していると気づきます。その際、快(いい匂い)/不快(臭い)もしくは危険/安全の基準がはたらいているようです。
味覚も同様に、快(おいしい)/不快(まずい)もしくは危険(食べられない)/安全(食べられる)かどうかを判断しています。
どちらも快を追い求めるか、苦痛を避けるという基準で感受していますが、刺激に対していちいち意味を求める思考をはたらかせる余地は少ないと言えそうです(嗅覚は異性の判断にかかわることもあるので、鋭敏な人にとっては、もう少し意味の広がりがあるかもしれません)。
触覚はもっと奥が深い感覚です。
触覚刺激の性質として、第一に、痒いとか痛いとか不快がひっきりなしにあらわられては、それを解消する行動を成功させるたびに、快のような爽快感があらわれることに気づきます。この快/不快の波は、四六時中起こっています。病気やけがによって体内に深刻な痛覚があらわれると、この痛みの意味は何だろうかと自己内対話が深まりますが、すぐに解消できる体表面のわずかな痛痒では、快/不快の生滅で終わってしまって、意味を求めることは少ないと考えられます。
第二の性質として、何かが自己に触れる抵抗の感覚によって、身体の実在と、身体の外に広がる世界の実在があらわれ、自己は世界と分かたれました5)。そのあいだの実践的な交渉や葛藤の前線として、体表面の刺激があると気づきます。この戦いにおいて劣勢に押しやられれば病気やけがといった痛覚を味わい、攻勢に突き進めば自己実現が果たされていきます。痛覚を味わうときのほうが、触覚刺激の意味を考える機会は多いと思います。
第三の性質として、自己実現を果たすために、無意識に手足を使っていることに気づきます。たとえば健康を維持したいという願いをもって散歩するとき、足の裏は靴底を通して地面との接触を実感します。ふだんはその触覚を意識することはあまりありません。体表面は、これまでの人生経験を通して蓄積してきた思念や、尽きせぬ願望を実現するために、行動を推進しています。
けれども、行為の触感自体に意味を求めることは、それほど多くないと思います。
たとえば絵を描くために筆をもつ場合、描かれた内容を視覚で確かめることで意味を見出すことはあっても、描画の最中に、なめらかな木肌であるとか軸が細いなど筆の感触そのものに意味を求めることは少ないです。「この筆はもちやすい、だから絵が描けるよい筆だ」などと、筆の存在意義としての意味をはじめに見出すことがないわけではありませんが、道具になるや否や、どちらかと言えば快/不快の感覚に収斂されてしまって、意味を求める意思はもう実現したい行為の先に向かっていっています。
結論として、触覚の刺激は快/不快の感覚に収斂されることが多く、刺激そのものの意味を立ち止まっていちいち掘り下げて解釈する時間は、それほど持続するものではないのではないでしょうか(ただ、こうした嗅・味・触覚への価値判断は、視聴覚に依存する私の「鈍さ」ゆえの評価であって、その意義を十分に発掘していない可能性があります)。
とはいえ、それを言うなら視聴覚も同じであって、見るもの聞くものすべてに快/不快の判断は強力にはたらきます。美しい絵を見るのは快だし、好きな音楽を聞くのも快で、身体はそこにはたらきかけようとします。見る・聞くに堪えない不快なテレビ映像やラジオ放送があれば、チャンネルを切ります。それでも視聴覚には、言葉や標識という、立ち止まって概念の意味を解釈しないではいられない刺激があります。
話を触覚に戻せば、視覚障害のある人が点字を指でなぞったり、点字ブロックを足で確認したりするときに深い意味を発掘できるのは、そこに概念が含まれているからだと思います。点字は記号であり、文字と同じコミュニケーションの表現ですから、それ自体意味内容のかたまりです。
視覚はしばしば意味の前に立ち止まります。身近な人間や生き物の動作、特に表情には多くの解釈されるべき意味が含まれています。この場合の意味は、自分との関係において開示されることが多くなります。さらに、文字や標識を判読する場合に立ちあらわれる概念の意味は、解釈の度合いに応じて深みを増します。
視覚と同じく聴覚においても、刺激の受容にはしばしば意味の開示をともないます。
五感は無意識に刺激を受けとっていることが多く、聴覚も音刺激をもたらす対象に意味を求めて、隅から隅まで解釈しながら聞きとっているわけではありませんが、それでもときどき「この音には理解を進める余地がある意味内容が含まれている」と立ち止まりたくなることがあります。
聴覚が音に意味を求めて聞いているかと問われれば、そういう時間は多いと思います。音という刺激は意味であふれています。意味が向こうからやってきて解釈を求める場面が数多くあります。
なぜ「音の意味」がわからないと刺激が強迫的に飽和したり、あふれ出したりするのでしょうか。
それは、音刺激に含まれる、しばしば自分に関係づけられるはずの意味内容が理解できないために、対象と自分のあいだに横たわる布陣を把握できず、自分の身体が空間に定立する位置を確定できない、つまり<定位>できないからです。<定位>に失敗して、想像の内圧が高まっている状態と言えます。
音の正体がある程度わかっていなければ、<定位>するのはむずかしいのです。
〈定位〉から考える聴覚過敏11 火に油を注ぐもの(2) 音の意味
「気分」とともに「音の意味」もまた聴覚を過敏にさせる要因になります。「音の意味」がわからなければ「不安な気分」になるし、「不安な気分」が高じれば「音の意味」がますます聞きとれなくなるという悪循環が生じます。こうした不安が音の聞こえ方を変化させ、刺激を増幅させる様子を体感的に表現している映像があります。
「サイレントヒル2」というホラーゲームでは、主人公の潜在意識が具現化された世界が舞台になっており、濃霧や暗闇に包まれて数メートル先が見えない局限された視界で、殺人を犯した罪悪感など主人公の心が生みだした異形の怪物が近づくと、携帯用の小型ラジオのノイズが鳴り出すという演出があります。自分に迫ってくるものの正体がわからない恐怖によって聴覚過敏のノイズが増幅する様子に似ており、印象に残ります。
原始的な恐怖が神経を興奮させる「気分」よりも、「音の意味」が聞こえに及ぼす影響はもっと複雑で込み入っています。
聴覚過敏は、音とその意味内容をどういうふうに捉える(レシーブする)か、解釈するか、受容するかという問題であり、体験です。
「音の意味」が全然わからない条件で音を聞く場合と、よくわかる条件で音を聞く場合とでは、聞こえ方にかなり差が生じます。「音の意味」がわからなければ、不安な「気分」がもたらす現象と同じく、刺激の総量は多くなり、音量は大きくなり、距離は近くなります。しばしば強迫的に受容限度に向かって飽和していき、さらにあふれ出ることもあります。
音の物理レベルに関係しないこの心理的な現象は、「音の意味」を求めようとする認識のうちで起こっています。
〈定位〉から考える聴覚過敏10 火に油を注ぐもの(1) 不安
聴覚を過敏にさせる3つの要素「調整」「気分」「音の意味」のうち、「気分」「音の意味」といった心理的な問題が聞こえ方に与える影響ははかりしれず大きいものがあり、無視することはできません。
選択的注意ができないというだけで、「火に油を注ぐもの」がまったくなければ、症状は甚だしく悪化することなく、「深刻な」聴覚過敏として燃え上がるには至りません。逆に言えば、「気分」を安定させ、「音の意味」を把握することができれば、過敏の程度をコントロールしやすくなります。
さまざまな気分がありますが、「火に油を注ぐもの」となるのは、怯え、不安、恐怖、怒りなど原始的な感情です。原始的な感情は、瞬時に神経系をピリピリ興奮させ、聴覚過敏に多大な影響を及ぼします。情緒が不安定だと刺激の許容閾値は低下し、感受量が増大して、聞こえは過敏になります。安心しきっている気分では聴覚過敏になりにくく、聴覚過敏が出ているときはたいていなんらかの不安を感じています。逆に最も抑止力となるのはリラックス(弛緩)した気分で、症状の出現を抑制し、過敏によって生じた身体の痛みを和らげます。
ある日私は、つんざくような轟音に打たれて目が覚めました。マンション上階で改修工事をしていて、そのドリルが回るゴーッというすさまじい機械音が、天井一枚を隔てて響いてきたのです。
身体の内部にまで侵入されるような脅威と圧迫を感じて、息が詰まりました。前日までは、この強烈な刺激にかろうじて耐えることができていました。それが、急に音がこちらに向かって大きくなり、その距離はとうとう「身体に直接触れている」と感じるところまで、近くに肉薄してきました。
私はこの日、ある集会に参加する予定でいました。けれども、対人関係をうまく築けない不安からある人と顔を合わせるのを恐れていました。そうこうしているうちに外出するタイミングを逃してしまい、参加しなくてもよくなったとたん、轟音から受けとる強圧感はなんとか耐えられる許容値に戻り、呼吸がすうっと楽になりました。
関係に<定位>できないという不安が聴覚過敏をあおり、聴覚過敏が気分の<定位>を確立しないという相互作用によって、症状は悪化しました。聴覚過敏という震源を抱えたひずみだらけの地盤は、「火に油を注ぐ」気分によって、ほんとうに地震が発生するところまで揺らいでしまうのです。
〈定位〉から考える聴覚過敏9 こだわる固体の固着とこだわらない気体の流動
なぜこれほど刺激に反応しなければならないのでしょうか。
感覚過敏のイメージをはっきりさせるために、逆に感覚の鈍い人を描出してみます。自分の生命の流れがほかの生命の流れと同期(シンクロ)する振幅が広い。変化についていける。流動している。臨機応変に対応できる。こだわりがない。固着しない。多勢に合わせることができる。ざっとこんなイメージが浮かびます。
感覚過敏の人は、特定の刺激に愛着することもありますが、違和感を覚えて排除しようとする強烈な心のしくみをもっています。刺激を同化させるか、異化させるかの核心をもっているのです。感覚受容の布陣の本丸の中心に、自分の座布団があって、そこにドッカリ座っているようです。感覚過敏は、この座布団の振動です。
一方鈍感な人は、座布団から腰を浮かせて、いつでも関係の流動に反応(レシーブ)する姿勢をとっています。定常位置の転覆を驚愕しなくても対応できるのです。もっとハイレベルな姿勢になると、すでに座布団も消えてしまって、空気のような流動そのものになっている人もいます。流動度が高まると、振動する固体(こだわりの座布団)がなくなるから、鈍感でいられるのだと思います(こだわりは少ないほうが生きやすいので、鈍感さを少しおすそわけしてもらいたいです)。
固体か気体か。固着か流動か。
こだわる固体とその固着が感覚過敏の人すなわち自閉症スペクトラムの人であり、こだわらない気体とその流動が鈍感な人すなわち自閉症スペクトラムから遠い人であるというイメージを思い描きます。
こだわりと感覚過敏は、こういうところでつながっていると思います。たくさんの刺激に過敏に反応しなければならないのは、こだわりの座布団が振動するからです。