マイノリティ・センス

自閉スペクトラム症の個人的な表現・分析(聴覚過敏多め)

スイレン

〈定位〉から考える聴覚過敏12 刺激に意味を求めるか否か

 「音の意味」がわからないとはどういうことでしょうか。

 意味とは、価値・重要性・意義という意味を除けば、「記号(特に言葉)の表す内容」「ある表現や行為によって示される内容、特にそこに含み隠されている内容」(明鏡国語事典)です。つまり、表現や行為や物事などに含まれる理解可能/不能な内容です。

 「音の意味」がわからないとは、音刺激に含まれる、しばしば自分に関係づけられるはずの意味内容が理解できないということです。

 

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 聴覚以外の感覚刺激に、私たちは意味を求めるでしょうか。

 

 嗅覚は主に、対象が食物や化学物質として体内に摂取可能かどうかを判断していると気づきます。その際、快(いい匂い)/不快(臭い)もしくは危険/安全の基準がはたらいているようです。

 

 味覚も同様に、快(おいしい)/不快(まずい)もしくは危険(食べられない)/安全(食べられる)かどうかを判断しています。

 

 どちらも快を追い求めるか、苦痛を避けるという基準で感受していますが、刺激に対していちいち意味を求める思考をはたらかせる余地は少ないと言えそうです(嗅覚は異性の判断にかかわることもあるので、鋭敏な人にとっては、もう少し意味の広がりがあるかもしれません)

 

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 触覚はもっと奥が深い感覚です。

 

 触覚刺激の性質として、第一に、痒いとか痛いとか不快がひっきりなしにあらわられては、それを解消する行動を成功させるたびに、快のような爽快感があらわれることに気づきます。この快/不快の波は、四六時中起こっています。病気やけがによって体内に深刻な痛覚があらわれると、この痛みの意味は何だろうかと自己内対話が深まりますが、すぐに解消できる体表面のわずかな痛痒では、快/不快の生滅で終わってしまって、意味を求めることは少ないと考えられます。

 

 第二の性質として、何かが自己に触れる抵抗の感覚によって、身体の実在と、身体の外に広がる世界の実在があらわれ、自己は世界と分かたれました5)。そのあいだの実践的な交渉や葛藤の前線として、体表面の刺激があると気づきます。この戦いにおいて劣勢に押しやられれば病気やけがといった痛覚を味わい、攻勢に突き進めば自己実現が果たされていきます。痛覚を味わうときのほうが、触覚刺激の意味を考える機会は多いと思います。

 

 第三の性質として、自己実現を果たすために、無意識に手足を使っていることに気づきます。たとえば健康を維持したいという願いをもって散歩するとき、足の裏は靴底を通して地面との接触を実感します。ふだんはその触覚を意識することはあまりありません。体表面は、これまでの人生経験を通して蓄積してきた思念や、尽きせぬ願望を実現するために、行動を推進しています。

 

 けれども、行為の触感自体に意味を求めることは、それほど多くないと思います。

 たとえば絵を描くために筆をもつ場合、描かれた内容を視覚で確かめることで意味を見出すことはあっても、描画の最中に、なめらかな木肌であるとか軸が細いなど筆の感触そのものに意味を求めることは少ないです。「この筆はもちやすい、だから絵が描けるよい筆だ」などと、筆の存在意義としての意味をはじめに見出すことがないわけではありませんが、道具になるや否や、どちらかと言えば快/不快の感覚に収斂されてしまって、意味を求める意思はもう実現したい行為の先に向かっていっています。

 

 結論として、触覚の刺激は快/不快の感覚に収斂されることが多く、刺激そのものの意味を立ち止まっていちいち掘り下げて解釈する時間は、それほど持続するものではないのではないでしょうか(ただ、こうした嗅・味・触覚への価値判断は、視聴覚に依存する私の「鈍さ」ゆえの評価であって、その意義を十分に発掘していない可能性があります)

 

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 とはいえ、それを言うなら視聴覚も同じであって、見るもの聞くものすべてに快/不快の判断は強力にはたらきます。美しい絵を見るのは快だし、好きな音楽を聞くのも快で、身体はそこにはたらきかけようとします。見る・聞くに堪えない不快なテレビ映像やラジオ放送があれば、チャンネルを切ります。それでも視聴覚には、言葉や標識という、立ち止まって概念の意味を解釈しないではいられない刺激があります。

 

 話を触覚に戻せば、視覚障害のある人が点字を指でなぞったり、点字ブロックを足で確認したりするときに深い意味を発掘できるのは、そこに概念が含まれているからだと思います。点字は記号であり、文字と同じコミュニケーションの表現ですから、それ自体意味内容のかたまりです。

 

 視覚はしばしば意味の前に立ち止まります。身近な人間や生き物の動作、特に表情には多くの解釈されるべき意味が含まれています。この場合の意味は、自分との関係において開示されることが多くなります。さらに、文字や標識を判読する場合に立ちあらわれる概念の意味は、解釈の度合いに応じて深みを増します。

 

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 視覚と同じく聴覚においても、刺激の受容にはしばしば意味の開示をともないます。

 五感は無意識に刺激を受けとっていることが多く、聴覚も音刺激をもたらす対象に意味を求めて、隅から隅まで解釈しながら聞きとっているわけではありませんが、それでもときどき「この音には理解を進める余地がある意味内容が含まれている」と立ち止まりたくなることがあります。

 聴覚が音に意味を求めて聞いているかと問われれば、そういう時間は多いと思います。音という刺激は意味であふれています。意味が向こうからやってきて解釈を求める場面が数多くあります。

 

 なぜ「音の意味」がわからないと刺激が強迫的に飽和したり、あふれ出したりするのでしょうか。

 それは、音刺激に含まれる、しばしば自分に関係づけられるはずの意味内容が理解できないために、対象と自分のあいだに横たわる布陣を把握できず、自分の身体が空間に定立する位置を確定できない、つまり<定位>できないからです。<定位>に失敗して、想像の内圧が高まっている状態と言えます。

 音の正体がある程度わかっていなければ、<定位>するのはむずかしいのです。