〈自閉〉と〈社会〉のはざまで はじめに(2) 〈自己〉が〈自己〉であろうとする物語
◆〈自己〉が〈自己〉であろうとする物語
私が生涯で、一番悩み苦しんだのは、〈自閉〉である。一言でいうと、「〈自閉〉という〈自己〉」「〈自己〉の中から出られない」。
このテーマについて語り尽くせば、1冊の本になるかもしれない。
私は今、重度の聴覚過敏に悩んでいる。家から出るのも困難である。
この問題にかかりきりで、先に解決しなければならなくなった。それで、何年もかけて手記を書いている。
ほんとうは、〈自閉〉について考えたい。解き明かしたいのである。こんなことを言っている人は、誰もいないようであるが――。
生涯、苦しめられた〈自閉〉について、ライフワークとして、書きたい。
しかし、きゃつめ(聴覚過敏)が私を離してくれないので、仕方なく、闘いの合間に、ミニ手記を書くことにした。生い立ちから〈自閉〉に悩んだ歴史を、簡単にまとめた。
「中二病」という言葉がある。自己愛に満ちた思春期の空想を揶揄した、ネットスラングだそうである。私がこれから書こうとしている〈自閉〉と〈自己〉は、世間の目からは、いわゆる「中二病」の様相を呈しているかもしれない。
私の闘いを、単なる「中二病」として片付けるのではなく、「発達の困難さ」だと捉えてほしい。
人がやすやすと乗り越える階段が、とてつもなく大きいとしたら。一歩のきざはしが、ビルディングほどの高さだとしたら――。〈自己〉を保つことが、どれほど困難か。
これは、〈自閉〉と〈社会〉のはざまで、〈自己〉が〈自己〉であろうとする物語である。