開通―コミュニケーションの封鎖が解かれるまで― 1 話しことばの意味が消えた
「○月×日に診察した分が、資格取得日に入っているかどうか……」
病院の事務員が難しい顔で呟いた。
○月×日の三週間前、ある事情によって保険証の資格を喪失した。継続して使えるようにしなければならないが、今は手元にない。病院で診察を受けた後、その事情を伝えると、このように説明されたのだった。
spoken language――話しことばがクルクル空中を舞っている。人間のvoice(音声)を意味とともに同期(シンクロ)しながら受けとるヒアリングは、私の場合、時々使いものにならなくなる。つまり、会話できなくなる。
「……えっ?」
「○月□日からだとダメ」
「○月□日???」
事務員のことばをオウム返ししても分からない。
時間は目に見えない流れをもったLIVE情報(記録された情報に対して、現在進行中の生情報)であり、流れを流れのまま捉えなければならない。日付や数字で表された時間軸を指示することばは、画像化されにくい。「○ガツ□ニチッテナニ」という自分の思考と、「○ガツ□ニチカラダトダメ」という他者の声が脳内で混線して、世界に働きかける意志がしだいに背後に押しやられていく。
「シカクシュトクビハイツカラ」「シカクシュトクビハイツカラ」「シカクシュトクビハイツカラ」……
事務員の口から、ATM音声のように、同じことばが繰り返される。ひとつひとつはとても簡単なことばなのに、伝わってくる内容がない。バラバラに分解されたことばの断片は、意味がまるごと抜け落ちて、sound(音)そのものになっている。
なんのテーマについて話しているのだろうか? 話題のインデックスに当たるテーマが見えない。文脈の主語が姿を隠し、述語が遊離しているようだ。「シカクシュトクビハイツカラ」という一言だけが文脈から離れ、プカプカ空中に浮かんでいる。
事務員は困惑の表情で固まっている私に、辛抱強く説明を続ける。
「その………、…………に、………………でェ、………………………………すよ」
「え? え?」
廊下に不気味にこだまする呪文のような響き。圧(お)されるままの意志が、soundに秘されたコードを解読しようと格闘する。
――このままではまずい。
鞄からノートを取り出し、事務員のことばを聞こえる順番通りに記述していく。そうやって文字にすれば、かろうじて「自分は今、何をしなければならないか」方向性を掴むことができる。しかし、耳に届くことばの順番を頭の中で入れ替えることができない。ことばの音の配列に縛られて、意味は浮上してこない。
突然、足元に地割れが出現する。足をとられて吸い込まれる。裂け目は下半身をがんじがらめにする。――これは私の心象風景であり、実際、病院の待合廊下にそのような自然現象が発生したのでは、もちろんない。けれども、心のスクリーンにはこのような映像が浮かび、現実に体感される。
前後に崖のような壁が迫ってきて、視界が真っ暗になる。
――ことばが通じない時、どうやって対処してきたんだっけ……?
今まで積み上げてきた「知恵」が一瞬、白紙さながらのタブラ・ラサ(何も書かれていない書板。感覚的経験をもつ前の心の状態)になる。ここが〈穴〉だ。〈穴〉にはまった。
今度は〈卵〉が出現する。全身を覆う〈卵〉の内部に閉じ込められる。〈卵の殻〉は硬く、両手を使ってガンガンたたくが、内側から割ることはできない。工具を手にとる。金槌で割る。スパナを投げる。ドライバーでこじあける。ビクともしない。
何もかもありすぎるのに何もない。それを表現する方法がない。――言語のない世界。
〈卵の殻〉は体の周囲から世界の縁まで拡張していき、自分をとりまく空間そのものになる。頭上に殻でできた天空が出現する。天空には外部の世界に通じるチャンネル(通路)があるが、勢力の弱まった台風の目が見えなくなるように、平らになって消えていく。
これがコミュニケーション封鎖の感覚だった。
私はこの感覚を医師に伝えようとして、声を詰まらせながら、必死の説明を試みた。
「以前う…うまくしゃべれたはずなのに…しゃべれなくなった……。分からなくなった。このままこ…ことばがなくなったら……」
「枠を感じるんでしょう? リジン。リカク。分かります?」
「……離人。離隔。分かります」
リカクという医師のことばは、頭の中で、すぐに「離隔」という漢字に変換された。一瞬、医師の視線の先にあるカルテとパソコンが視界に飛び込んできたものの、深くうつむき、コミュニケーションのチャンネルが遮断された私には、何も把握することはできなかった。しかし、消えかかりつつもかすかにあいている〈卵の殻〉の穿孔から流れ込む、ほんのわずかなことばの意味が、まるで水のように、封鎖された世界に染み渡った。細い細いトンネルの隙間を通って、それはたしかに意味を携えて、意識の内部にこだました。