〈自閉〉と〈社会〉のはざまで はじめに(1)〈自閉〉は嫌われている?
〈自閉〉は嫌われている?
〈自閉〉は嫌われているらしい。
電車内で携帯電話をかける人や、わけのわからない独り言を呟いている電波系の人は、多くの人々に異様な不快感を与えると、精神科医の斉藤環はいう(※1)。なぜなら、「僕たち」と同じ言葉をしゃべらず、別の世界を背負って歩いているからだと。
斎藤環は、いわゆる〈精神病〉の〈自閉〉のことを言っているらしい。
私が話題にしたいのは、自閉症の〈自閉〉である。
もし〈そこ〉に、〈自己〉がいるとしたら?
そう考えたことはあるだろうか?
世間では、〈自己〉というものは、問題にされることが少なく、「それをもっていることがちょっとでも気づかれるならば、この上もなく危険なものである」とキルケゴールは言っている(※2)。
〈自閉〉も、〈自己〉も、世間には、無用の長物かもしれない。ましてや、「〈自閉〉の中に〈自己〉がいる」などということは、考える価値もないのだろう。
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〈自閉〉についての言説は、世間では、あまり見受けられない。
私は、状況判断ができなかったり、空気や表情が読めなかったり、言葉をうまく操れなかったり、人間関係でトラブルを起こしたりして、社会生活で苦労する。そうしたテーマについて書いてある一般書籍なら、山のようにある。
しかし、〈自閉〉は少ない。
このテーマについて、精神の発達の面から、生々しく解き明かしている当事者は、ドナ・ウィリアムズである。他にもいるかもしれないが、情報収集の仕方が狭く深いために、幅広い見識のない私には、今のところ、彼女しか思い浮かばない。
発達障害の人にとって、〈自閉〉というテーマは、必ずしも中核にあるものではない。過去、多くのADHDの人とかかわったことがあるが、彼らの中核となるテーマは、〈自閉〉ではなかった。
〈自閉〉を中核に抱えている人は、自閉症者だけである。だから私は、自閉症者に、特別な親近感を覚える。
※1 斎藤環『生き延びるためのラカン』、2012年、ちくま文庫、18頁
※2 キルケゴール『死にいたる病/現代の批判』、1990年、白水社、48頁
※ちょっとわけあって、駆け足で、大量にアップしていく予定です。