minority sense

天寧煌子の作品基地 自閉スペクトラム症(聴覚過敏多め)に関する散文・息抜き雑文/詩/その他絵

スイレン

自己表現の火花は散る 芸術というメッセージ

芸術かメッセージか

生きることは芸術であり、爆発だ。

 

芸術の世界では、自由は、おのれの決意次第だ。
今すぐ、誰に遠慮することもなく、
なにものにも束縛されずに発揮できる。
社会に対して、ぶつけたいメッセージがある。
言わずにはいられない。
ならば、当然、表現のスタイルが決まってくる。
内容が形を決めるんだ。
どう表すか。それは自分次第。無限の自由がある。

 
芸術はメッセージだ。
伝えたいものがあるならば、言うことは自ずから決まっている。
いちばん適格に、言いたいことを表す形はなにか。
それは自分にしかわからない。

 

今、この瞬間、まったく無目的で、無償で、
生命力と情熱のありったけ、全存在で爆発する。
それがすべてだ。

岡本太郎『壁を破る言葉』

 


基本、私がやりたいのは自己表現であり、芸術だ。
だからほんとうは、読者を意識するブログを運営するには向いていないのだろう。
ブログは芸術ではないから。
しかし、メッセージはある。
岡本太郎は、芸術はメッセージという。
誰に? 何を? 伝えたいのか?

 

 

グループ展をやった時、「人目」が火の粉のように落ちてきた。
それは自己表現の自惚れが、火花のように降り注いだようだった――。

 

 私は恥ずかしかった。
 詩集を読み返すと、訴えばかりがヒステリックで、被害妄想的で、自己中心的で、子どもっぽい気がした。グループ展に客を来させるだけ来させて、こんなのをぶっつけて。バツが悪かった。後味が悪かった。悲痛な叫びにならざるを得ないいきさつと重荷が私にあった。けれども詩としての表現は稚拙だと思った。
 さらに、電子書籍のデータを整理していると、目を覆いたくなる未熟さを発見する思いだった。イヤらしいむきだしの恥ずかしさ。こういった致命的欠陥に目をつむって、井の中の蛙が恐竜になって飛び出すがごとく、よい点のみを身内自慢されることに抵抗があったと気づいた。
 グループ展という花火が、無言の指弾となって落下してくるようだった。芸術家の岡本太郎は、見て通り過ぎたとたん忘れてしまうような「あら、いいわね」は、「どうでもいいわね」と言われたのと同じと言っている。
 「どうでもいいわね」の火花が、落ちてきたのではないか――。
 彼らの無言は一様に似ているように思われた。何か批判があるようなのに、善人の微笑みに漂う無言。それが不気味で、そのわからなさが聴覚を増幅させていた。
 愛想笑いで拡散したうぬぼれが、今ごろ無言の火花のかすとなって聴覚過敏に降り注ぐ……。
執筆中の『踏まないで! ―ある自閉症者の聴覚過敏手記―』第11章から

 

 

【火花】

まるまるふとった恐竜を
井戸から一発打ち上げて「おらが娘ええ娘」

    何事ぞ何事ぞ
    門々に放たれる

大輪の向日葵が
夜空にひらく

    何事ぞ何事ぞ
    たかる蝿の群れ

爆ぜる火の粉
漆黒のキャンバス

    アライイワネエ
    書き割り踏んづけた

――落下
一夜の開花
降り注ぐ
火花の破片

 


これとまったく同じイメージを、新聞小説に発見した。

 

名もなき者が話題に上り、一瞬で有名人になる。だが、忘れ去られるのも一瞬。力強い音が響いた気はするが、何だ何だ、と思っているうちに、もう次の音が鳴っている。人々の目に映っているのは、特徴的な音を轟かせた発生源の正体ではなく、たくさんの音が鳴っている賑やかさそのものなのだ。誰がどんな音をどんなふうに鳴らしたのかはどうでもいい。そこらじゅうで色んな音が鳴っている喧噪の中で踊るのが、楽しいのだ。

 

空を埋め尽くしていると思っていた花火がすべて偽りで、天に鳴り響いていると思っていた音はすべて出鱈目だったと種明かしをされたようだった。

朝日新聞連載小説 朝井リョウ「スター」35

 

 

力強い響きに幻惑されない耳を!
偽りに曇らない眼を!
そうした眼と耳を、どんなに欲することだろう。