社会に理解を求めること、断念すること――二つの道の消失点【統合失調症者Tとの対話】
社会に理解を求める
「未成年の時はマイノリティだった。親が守ってくれて、まわりの人は通り過ぎていくだけ。けれども大人になってメジャーになる。自分もまわりから見たら通り過ぎる一人にすぎない。みんなと同じ一員とわかる。失楽園」
統合失調者Tが早口で頭の中から言葉を引っ張り出す。渋い顔つきで。苦い過去を思い返すように。コメダの薄暗い照明が、彼の黒いジャンパーに吸い込まれる。七〇デシベルはあろうかというざわつきの波は、彼の後ろに凪いでいく。私は彼の隣で言葉を書き取る。
「批判は自分に戻ってくる」
批判……? 私は考えを巡らす。どういうことだろう。
「自分モナド(充実した内面をもち、自発的知覚を担う単位実体)から他人へ、理解されるように」
口は活発に回転するのに、Tの渋い表情は崩れず止まったまま。
「これまではまわりから見られる自分だった。映画を観ても他人事。それが社会の一員になったら自分事になる。みんな自分、今は自分」
「今度は自分の番……?」私は顔を上げる。
「自分はその場に取り残されている。だから伝える。自分でアピールする」
あっ、そうか! 私は心に思う。〈だからこそ自分が主体となって意見を主張していくということですね〉
…でも、わかるハズがないよな
「俺は入れ歯をつくった時思った。入れ歯は実用性ではない。外見。こういうふうに女性はお洒落するのかと。現代は見かけだけだと思っていた。でもその見かけを追究していくうちに、内面に至るとわかった」
話し掛けながら、Tの眼は遠くを見ている。
「360度狂って、もとの地点に戻ってくると――」
騒然としたコメダの店内が、Tの言葉に吸い込まれる。
「だから私は○○人だったんだ。○○病だったんだ。だから疎外されてるのか。のけ者になっていたのか。ナルホドね。呪われてる。仕方ない――ならそれでいいや、と」
「それって」私は思わず口を挟む。「私の知り合いに、I から we へ、we から they へ、they から I に戻ると言った人がいました。その I に戻ったということですか?」
「そう。360度回って。日本人は180度だけどね」
「どういう意味ですか?」
「日本人は向こう側に行ったらそれきりだから。叫んで終わり」
「たしかにそうですね」
私は日本の戦争映画を思い浮かべる。
〈「言必信、行必果」(これすなわち小人なり)と。この言葉ぐらい見事な日本人論はない。(中略)「やると言ったら必ずやるサ、やった以上はどこまでもやるサ」で玉砕するまでやる例も、また臨在感的把握の対象を絶えずとりかえ、その場その場の“空気”に支配されて、「時代先取り」とかいって右へ左へと一目散につっぱしるのも、結局は同じく「言必信、行必果」的「小人」だということになるであろう。〉
二つの道の消失点
「何も言わずにわかろうとしてもらうわけにはいかない。伝わるようにアプローチしない限り」Tは固い表情を崩さない。
「つまり、三六〇度の自己回帰『わかるハズがないよな』と、それでもわかってもらえるようにアプローチする。この二つを同時に考えるということですか?」
答えを聞く前に、ウェイトレスが閉店を知らせにきた。私達は慌ただしく会計を済ませた。
外に出ると、二月深夜の寒風がコートを激しくなぶる。
聴覚過敏をどのように社会に伝え、心の魔物を落とせばよいのか。一番聞きたい結論を惜しみ、私はまたノートを取り出して話の続きを促した。
「もし本で意見してダメだったら。誰も聞いてくれなかったらどうすればいいんですか?」
「運命の手を待つ。そういう瞬間が人生にあったはず」
Tは寒さに震えながら、辛抱強くつきあう。
「いかに納得するか。あきらめるか。落としどころを探る。自分はこの程度で十分だ、十分だったハズと腑に落ちること」
やはりそうなのか! 安郷さん、I、Kの言葉がTの言葉を通して一つに重なっていく。
「これだけやったんだから。天寧さんは絵も描いて、詩も書いて、ほんとうは満足してもいいはず……」
「私は強迫的になっていると自覚しています」私は引っ張る。「それはトラウマから来ているんです。社会から障害を認めてもらえれば、この呪いは解けると思うんです……」
社会から感覚という生命のランプを否定されることで、ありのままで存在してはいけないという破壊的メッセージを受けた。生きる能力を奪われて。結果、強迫的に障害を承認してほしいと望むようになった……。
「社会の承認を……納得して……棺の前で……目標……理解者……」
あまりの寒さに、ここで解散となった。Tの残したキーワードは、文章化されないまま、寒風に舞う雪のように私の頭に舞った。
ある人が「議論せよ」と諭したように、社会に意見すること。自分はこの程度と納得すること。二つの道の消失点を、落としどころを探らなければ。新しい羅針盤を見るように、私は決意した。