マイノリティ・センス

自閉スペクトラム症の個人的な表現・分析(聴覚過敏多め)

スイレン

『踏まないで!』第11章 ブラックホールの秘密

※この記事は、現在執筆中の聴覚過敏手記『踏まないで!』の一部分です。

 第11章(600頁分)のうち、最後の章です。

 

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    1

 厳しかった猛暑は和らぎ、朝晩の涼しさはいよいよ増して、秋の気配が濃厚になってきた。真夏のころ散歩道でぶつかってきたセミは姿を消し、道端にはその死骸の代わりに、すでに何かの木の枯れ葉が点々と落ちていた。

 

 九月上旬のある日、クマさんの自宅を訪れた。編集者の役割を依頼して預けておいた手記の原稿について、意見を聞くためだった。

 

 敷地の庭は、相変わらず名も知らない草花や木がジャングルのごとく盛んに生い茂っていて、足の踏み場もないほどだった。

 

 古い一軒家の裏口から招き入れられ、のれんをくぐると、七畳ほどの台所兼客間に通された。七畳とはいっても、食器棚や冷蔵庫や机など家具に占拠され、人が歩ける空間は二、三メートル幅の通路しかない。

 

 壁一面に、人や太陽や抽象図形などのモチーフが、鮮やかな原色で、ペンキの躍動感あふれる筆致で描かれ、というより描き殴られている。いまは別居しているクマさんの末娘が、心の葛藤を壁画で表現したものという。

 

「こんなセンスのない家はうちの旦那に見せられない」

 

 と、別居しているクマさんの長女が語ったというが、天井にまで広がるペンキの筆勢は、自由奔放で豊かな表現者の魂がかつてここにあり、表現の意思を尊重した親心がいまもあることを感じさせる。

 

 そこここでモノが存在を主張している。まるで雑貨のジャングルだ。奥のキッチンには作業スペースがないほど食器が山積みになっていて、傍らの壁にはフライパンが七つも掛かっている。木製の作業机には、やはり作業スペースがないほど瓶、筆立て、小物があふれ返っている。

 

 窓際には絵本や、キャラクター人形や、ラジオが立て掛けられ、至るところに新聞記事やら、誰かのサイン色紙やら、雑誌の切り抜きやら、私信のはがきやら、仕事メモやらがクリップで留められ、貼られ、置かれ、ぶら下がっている。あれもこれも種々雑多のモノが一緒くたに混ざっていて、その一つひとつが「これ、何だろう?」と客足を留める魅力を放っている。ここは、好奇心のおもちゃ箱だ。

 

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 クマさんはブカブカの男物ブラウスを着ている。近所の美容師から息子のお古をもらい受けたらしい。袖は肩より少し下の位置で無造作に切られ、ギザギザの切り口からほつれ糸が覗いている。夏なのにズボンは厚手の布地で、ブラウスと同じように膝丈で切られている。

 

「それ、自分で切ったんですか?」

 

「そうよォ、はさみで切ったの。涼しいよォー。服は布地第一! 老いて身体がヨレヨレになるとね、こういう厚手の布が筋肉や骨をサポートしてくれる。ガードルみたいなもんよね」

 

 齢七〇になるクマさんは、自分なりの工夫で年齢に合った服装を着こなしている。そんな個性的な姿で炊事場を行ったり来たりして、食べ物や飲み物を給仕してくれるのだった。

 

「あなたねえ、この作品いいよォ。時宜(じぎ)を得ているというか……」

 

 アイスピックで氷を割りながら、抑揚の豊かな調子で語り掛けてくる。私は客用の籐椅子に腰掛け、クマさんの言葉を書き留めるために広げた大学ノートを前にくつろぎながら、自信なさげな声音で答えた。「……そうですか?」

 

「やまゆり園の事件とか、多重生活困窮者とか、ひきこもりとか、世の中たいへんやと思う。そういう人にかかわるととにかく忙しくってー」

 

 感情移入するあまりときどき声を裏返しながら、クマさんはあるゴミ屋敷の凄絶な実情を語った。発達障害の子どもを複数抱えながら生活保護を受け、ギリギリの生活を送っているある母親がいる。その女性に食べ物を届けたり、役所の書類を書いたりして、密接にかかわっているという。NPO児童相談所の職員がさじを投げ、制度の狭間で支援の手が届かない超生活困窮家庭の暮らしを、身体を張って支えようと走り回っているのだ。そうしてじかに目にした日本の社会問題が、私の個人的な困窮に重なるという。

 

 クマさんは氷を入れた大ジョッキにジュースを何種類もミックスして、酒粕から抽出した酵素水を加えて出してくれた。それから、背もたれのない籐椅子に座り、裸足の足を組んで、左手の肘を机にもたせ掛けつつ、手記の感想を教えてくれた。

 

「一章から五章までは具体的な実体験ね。六章から七章は対自分と対社会の分析と読んだ。この分析がよかった。まず自分の身体を使って分析してるでしょ。それから社会的に納得できないところまで広げて考えている。社会に向かって詰むとか、生きてちゃいけないのかとか……。八章からは回復しながら行きつ戻りつして、あきらめろとかなんとか、あきらめろって助言も面白いけど、そういうふうにまわりから言われながらも、どうやって生きていくか模索して、七転八倒して、自分再生記っていうかなんていうか……そう、操縦法ね。八章からは書けっていう自分のミッションの自覚。だからものすごく濃いですよ」

 

 くすぐったい気持ちで、ありがたい金言を心にもノートにも大事に刻みつけながら、私は意外な調子で聞き返した。「そんなふうに分けるんですか? 一章から六章までが事件を描いた第一部、七章から最終章までが第二部と思ってましたけど」

 

「違う、三部構成。この構成はどうやって考えたの?」

 

「いえ、とくに考えたわけでは……」

 

「こういう本っていままであった? 分析にこだわったもの」

 

「さあ……」私は首をかしげて、記憶を探るように視線を宙に泳がせた。「当事者の自分史はけっこう出てるけど、どうなんでしょうねえ?」

 

 ドナ・ウィリアムズと森口奈緒美が自分のロールモデルとする自閉症者だったが、本を読む習慣があるとはいえ、ふだん見ている世間が狭く、流行に疎いので、パッと思い浮かばないのだった。言われてみれば、自分の書いたものは誰の自伝にも似ていない気がした。

 

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 壁に掛かった扇風機が首を回して風を送っている。その生ぬるい風を感じながら、以前から気になっていたことを問うてみた。

 

「私、自分の書いたものに自信がもてないんです。何を言っても書いても無視される。世間の反応がないのが悩みなんです。どや!? って突きつけて一人いい気になってるのかも。なぜ人々は黙るんですか?」

 

黙るのはワカランからやわ」クマさんは即座に断言した。「一章から五章までパニックになったでしょ。あー、こういうふうになるんかと思う」

 

 そうだったのか!? 呆(あき)れたような、ハッと開眼したような気分で、私は「えぇー!?」と脱力して、ぽかんと口を開いた。

 

「目に見える障害とは違って、目に見えない障害はわかんない。わかろうともしない。わかる必要もない」

 

「ううむ……それでは困ります」

 

「うちの娘だって」と発達障害のある娘ユウコさんを引き合いに出して、「しゃべってたら『やめて!』って泣きながら訴えるんですよ。よっぽどあたしのこと嫌いなんかと思ったわよ。それでぇ、」クマさんの声が一瞬、囁(ささや)くように小さくなり、片手が口元に添えられる。「小さい声を出すよう訓練したんですよォ」

 

「そうだったんですか……」

 

「みんな無知なんですよ。基本的にわかってない。まして聴覚過敏はわからん。出るときと出ないときがあるんでしょう? そんなことワカリマセェン。かなわんのはわかろうとしない人ね。実態を説明されりゃいいけど。こっちもカンタンに説明できないでしょ。だからァ、出版する必要があるんですよ」

 

 手首をくいっと折り曲げ、手のひらで宙をひっぱたくようにして、私に向かって合いの手を入れる。

 

「れいわの山本太郎ちゃん。お母ちゃんがシングルマザーなんだってね。SNSの動画見た? しゃべり。迫力。わかりやすさ。あんたも一緒だってー。知らない人にはわかんないのよ」

 

 見て、と突き出されたスマホ画面のSNSから、れいわ新撰組山本太郎が演説している動画が次々に流れてくる。

 

「だーからァー!」

 

 「だ」と「が」が混じった鼻濁音のあと、語尾が間延びした独特の発音で、クマさんは畳み掛けた。それから「あ、な、た」と声を落として、「山本太郎に続け。波を、勢力を大きくしていくことよ。本を出す! 成功させたい。全国の図書館に買ってもらいたい」

 

 無理。いくらなんでも山本太郎は無理。降って湧いたようなビッグネームに内心たじろぎながら、私はのけぞって爆笑した。

 

 クマさんは立ち上がってジュースをつぎ足した。そのとき氷をこぼして、器用に足先を使ってぞうきんで床を拭きながら、私の背後から軽く肩をたたくようなしぐさで右手をはたいた。

 

「時は来たれり!」

 

「……でしょうか」

 

「まず本人が特性を受け入れ、まわりが認識して、理解して、対策を立てる。でなきゃ、あいつはヘンってよけいなトラブルが起きる。関係者の認識が必要よ。福祉、教育、行政、医療……そういうところに知識がなかったらどうしようもないじゃん」

 

「これ、ふつうの人向けに書いたつもりでした」

 

「フツーの人向きじゃないじゃん!? ……ねえ知ってる?」

 

 クマさんはまた立ち上がって、500ページの夢の束という映画のチラシをもってくると、机の上に置いた。映画の内容は、ある自閉症の女性が「スタートレック」の脚本コンテストに応募するため、映画会社に作品を直接持ち込みに行くというものだった。

 

自閉症で五〇〇頁って……私みたいなんですけど……」

 

 現時点において、Wordで本の体裁にした『踏まないで!』の原稿の頁数は、すでに六〇〇を超えている。

 

「でしょー!? この主人公が道路でうずくまってるとね、フツーの人が、あなたみたいな人が一人で旅をしちゃいけないわ、なんて言うのよ。この子はそっち系ってわかるの。社会に共通理解があるわけよ、アメリカには

 

 へえー、と感心して、私はチラシの、主人公の金髪と意志の強そうなまなざしを見つめた。

 

「だーからァー、あなたがやろうとしてることはァ、社会に共通理解がないといけないのよー。石投げなきゃ! 波しぶきがバーンと立つような」

 

 いやいやそれは、と謙遜しながら、爆竹の火花のように弾けるクマさんのイケイケ姿勢が可笑(おか)しくて、あははは、とまた笑った。

 

    2

 

「ところでクマさん、手記を読んだ人の反応を小説化したんですけど、これ読んでもらえますか?」

 

 「高木さんとの対話」を印刷した小冊子を手渡すと、クマさんはさっきまで開けっ放しだった口を閉ざし、どれどれ、というふうに落ち着いて目を落とした。私は身をかがめて冊子を一緒に覗き込み、その様子を横から観察した。

 

「『憧れる華』ァー!? そういう世界じゃない!」

 

 いきなり素(す)っ頓狂(とんきょう)な声を上げて、クマさんが高木さんの台詞(せりふ)に突っ込んだので、私は笑いながら「ちょ、ちょっと待ってください!」と慌てて、もう一冊準備していた自分用の小冊子にコメントを書き込んだ。

 

「なんだと思ってんのォ? 『泣いてやった』? ハァ~!? 気に入らん!」

 

「いや、そういう人なんですよ。そういう性格の……」

 

「そういう人でいいけど、少なくともそんな内容の作品じゃないでしょ。『ふつうの人、あそこまでつき合ってくれるか』って、フツーの人はいらないの!! わかろうとする人にわかりゃいいんだから。ハナからわかろうとしてないじゃん。っとにいけしゃあしゃあとやわ。『あはははは』(注・私の笑い声)って何があははははじゃ! あんたも笑わんでいい!」

 

「いやぁ……はははは……」クマさんの反応がいちいち面白くて噴き出してしまう。

 

 クマさんは文中に目を落としながら、次々にツッコミを入れていく。

 

「『肥料』ぅ? 腸内細菌の悪玉菌やわ」

 

「いや、だからそれは思考する材料という意味で……」

 

「人の内面、内省っていうものがわかんないの、わかろうともしないのー!? 腹が立って怒っちゃったじゃん、天寧さん」

 

 と叫んでプリプリしている。スイッチが入るとテンションが一気に上昇して、ジェットコースターがひっくり返ったみたいな裏返った声になり、様子が豹変する。そのリアクションがやたら可笑しくて、私はやはり上半身を折り曲げて、あはははは、とウケていた。

 

 それから、A・B型事業所で音楽をかけられないのは私のような人間がいるからと、高木さんが軽く責めた記述に、クマさんはまた声をひっくり返して追及した。「だーからァ、カラオケボックスみたいな部屋つくれっていうの! もっのすごいお金かかるワケではないと思うよ? 合理的配慮ってそういうことやて」

 

 私はケラケラ笑いながらもありがたくて、放たれる貴重な発言を、心にもノートにも大事に記銘した。

 

「『ふつうの子たちがもっとすごい闘いをやっている』って、人はそれぞれ苦労を背負ってるの。みんな苦しいんだから、そういう一般的なまとめ方したらいかん!! こんなとこで言う言葉じゃない!」

 

 と、いよいよ語勢を荒げ、見知らぬ人を叱る。

 

「それに、『一緒に鬱になってもらうには』って、そんなことしてくれなくても別にいいんですゥー」

 

「えっ、それはどういう……」

 

「一緒に鬱になったら助けてもらえないじゃん!? 健常者だから助けられるの。私にできること何? って当事者に聞いて考える。北海道に『べてるの家』って精神障害者の地域活動拠点あるでしょ? あれを認めなきゃ。社会は発達障害に無理解だと思う。高木さんはここに書いてあること、ほんとにわかったんかね?」

 

 結局、私が口下手で強く出られないところを、クマさんが代わりに主張してくれているのだった。

 

「第一章が面白いって、どこが面白いのォー!? なんで面白いと思うワケェ!? コンクリートに頭ぶつけてるのに。シリアスなのは読めないんじゃないのー!? シリアスに決まってんじゃん。立教大学の知性が泣くぜって言ってやって。立教体質がポップかよォ!? ポップもいいけど『ホ』と『フ』にもならん『。』だけやわ。あいつの立教とあたしの立教どこが違うんやー!」

 

 ケチョンケチョンである。

 

「『見てはいけないものを見て、引き返した』って、見ないかん! マイノリティ・センスなんて、突き詰めれば誰にでもあると思うよー!? みなさまはほんとにフツーが好き。というかフツーしか認めない。だから意見なんてないんだもん」

 

 同じように考えてはいたものの、ここまではっきり言葉にならなかった。内心、感嘆の吐息を漏らした。

 

「共通感覚ゥ? チャーァッムポイントォ!?」

 

 「チャー」の発音が、ジェットコースターがレールの頂点から空中へ飛び出すように裏返って、「ポイント」でまた着地する。クマさんの言葉の抑揚は、音楽のように跳ねて踊って生き生きしている。

 

「いかん!! 始めからそんなん売ったらいかん!」と叱りつけて、「あのね、天寧さん」と、

ようやく声を落とした。「能力、種、遺伝子――つまり命っていうのはね。育ちたいの、形あるものに。どこまで行けるか芽を出したいの。命ってそういうものなの。存在したいの、どんな命も。だから尊いんですよ。理不尽に終わらせちゃったらいかんのよ。人に見せるっていうのは結果なの、単なる承認」

 

 ジェットコースターの頂点から地面に着地したクマさんの言葉は、凜(りん)と力強かった。

 

だから命って奇蹟だと思うよ? おろそかにはできません。環境破壊なんかとんでもない話なのよ。カール・セーガンってSF作家知ってる? 昔、その人の本を読んでね、人間の身体は宇宙の物質でできているって書いてあって、エッ!? ってビックリしたの。あとから考えたら当たり前じゃんー!? って思うんだけど。死んだらまた元素に戻るんですよ。こないだNHKでブラックホールのテレビ番組見てねぇ……」

 

 話題があちこちに飛ぶ。二〇二九年七月に放送された「シリーズ スペース・スペクタクル第2集 見えた! ブラックホールの謎」の話をしているらしい。

 

「あ、それ、やってましたね。私もチラッと一瞬見ましたが、見損ねました」

 

「いままでのブラックホールは黒くて見えない、何でも吸い込むイメージだった。吸い込んだら吸い込みっぱなし。それが最新の研究でね、引きずり込んだエネルギーで宇宙の元素を放出するってわかってきたんだって。放出、あなたしてるじゃん? あたしあのブラックホールの映像見てね、あ、これは天寧さんのことやって思った。あなたはブラックホールだって」

 

「ええええーッ!? ちょっ、ちょっと待ってください!!」

 

 私は飛び上がらんばかりに驚いて、クマさんのように声をひっくり返して叫んだ。それから身を乗り出して「それ! それなんです!」と興奮し、小説「高木さんとの対話」の頁を最後までめくっていき、「これ見てください、ここに同じこと書いてあるでしょう?」と指で示した。

 

 「しかしこの、ブラックホールの中心孔のように……」という記述があった。

 

「私は自分のことをブラックホールのようだと感じてガッカリしてました。マイノリティ・センスというものが重力になって、自分をブラックホールにするのだと……。クマさんも同じことを考えていたんですか? 私だって、まったく同じことを考えていたんですよ! 以前から……」

 

 このシンクロニシティ。偶然だろうか? 身震いする思いだった。

 

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 ティリリリリ……ティリリリリ……。羽根を震わせて、鈴虫がしきりに鳴いている。すっかり夜は更け、部屋に渡したロープにぶら下がった裸電球の照明から、布の覆いを通して、黄色い光が降り注いでいる。

 

「世の中は相対的。裏表があるの」

 

 クマさんはさっきのブラックホールのイメージを、人間社会の法則に結びつけて諭(さと)した。

 

人間は引きずりもするし、放出もする。誰でもマジョリティ、マイノリティの両面をもってる。マジョリティになるときもあるし、マイノリティになるときもある。自分の中のマイノリティに気づかなきゃ

 

 自閉症者のドナ・ウィリアムズが誰でもエイリアンをもっている、人はそれを忘れているだけだと『自閉症という体験』で語っていたことを思い出して、私は、うん、と深く頷いた。

 

「社会はわかりにくい。いろんな人がいてカンタンじゃない。関係者じゃないとわかんないの。だから普遍化するの! 『フランケンシュタインの誘惑』って科学番組知ってる? あれで見たんだけど、マリー・キュリーがみずから光る稀少岩石を発見してね。子どもたちを放ったらかして放射能の研究してたの。こーんな大きな瘤(こぶ)をつくって……」と、喉(のど)に手を当てる。

 

「……放射能で癌(がん)ができたんですか?」

 

「そう! 要するにバランスが悪いのよ。そ・こ・で、ワタクシの登場。ブラックホールの放出、コレですよ。メジャーな人の自伝? いかん! そんなカンタンな話じゃない!」

 

「マイノリティの自伝は一筋縄ではいかないと? でもマイノリティ・センスは呪いだと言われましたよ。自分でもそう思ってるし……」

 

「呪いィ? いかん! そんなこと言う奴、蹴飛(けと)ばしてやれ。全ッ然、呪いだと思わん。呪いって 〝感情〟 だけでしょ? この手記は分析と命の向日性。ひきこもりエピソードって何? なーんで割愛した方がいいのォ? 排泄物ゥー? 救われてるじゃん。書いてあることに出口がないィ? 三部に出口あるじゃん」

 

 クマさんは「高木さんとの対話」に辛辣(しんらつ)なツッコミを放ち続ける。とてもここまで自分で自分を肯定できなかった。あっはっはと盛大にウケながら、私は転がり込む金言を素早くノートに記録していく。

 

「『救ってくれる人は誰』って、コレやて。ほんとだわさ、ほんと『許して』やわ。高木さん、なかなか最後のほうはよくなって、まったくわかってないわけじゃないのねェ」

 

「『よくなって』って……!」

 

 最初はよっぽど悪いみたいなクマさんの言い方が滑稽(こっけい)で、やはりゲラゲラ笑った。

 

    3

 

あたしのモットーは鳥の眼、虫の眼で見ること。鳥の眼で視野を広く、バランスをとって全体を見渡す。虫の眼は当事者の眼。両方の眼を備えた人になりたいと思ってる。あなたの手記を読むと、ヘエー、こういうときって身体がこういうふうになるんやーって思う。虫の眼になるには当事者の 〝横〟 にいること。〝上〟 じゃない

 

 クマさんの力説は、鳥の眼が欠けている私には大きな教訓を含んでいる。うん、うんと感心して耳を傾ける。

 

「上位概念と下位概念ってわかる? 上位段落と下位段落でもいいんだけど」

 

「上位は抽象するってことですか? メタ認知

 

「そう。下位は場合、ケースね。上位は発達障害とか、自閉症とか、人権とか、施策とか……社会や行政や関係機関のあり方などの概念。これをねぇ、グチャグチャにする人がいるのよ。こっちは上位概念について話してるのに、いきなり個々の具体例をもち出して、こっちはこうなってるけどどういうことやとかつついてくる人が。困るわよォー」

 

「なるほど」

 

「あなたの手記はね、下位概念の立ち位置に立って、虫の眼で見てるの。核にあるのは下位概念なのよ。それなのに、上位概念までパーンと打って言及してる。自分を掘り下げながら、引き込むエネルギーが放出してる、社会まで」

 

「……そうなんですか!?」

 

「これは天寧さんの文章だと。詩だと。いままでのブラックホールは下へ、下へと引きずり込むものだった。自分でも支えきれないほどの重力――死。じつはこれに……このパワーに、引きずり込むエネルギーによって、まわりのものが、宇宙の元素が放出される。下へ下へ行くエネルギーがまわりのものを反転させるの

 

「反転!?」

 

「だって全部引きずり込んだら、全宇宙ブラックバースになってまうじゃん。死の世界の隣に生命誕生の世界があるの

 

「……」

 

 自分は引きずり込むだけのブラックホールだと思っていた。まわりの人に重いと敬遠され、何より自分自身がマイノリティ・センスという重力に押し潰されるだけの……。そんな自分に、まわりを反転させる力がある?

 

「人はブラックホールであるべきです」クマさんは急に厳粛な口調になって、言い放った。「下へ下へ掘り下げるべきです、自分を。こういう人がいると、まわりはエネルギーに押されて、生まれてくるものがある。ノーテンキじゃない人は上を目指すな! 上に上に最初から行くな

 

「……」

 

「面倒を見なきゃいけない人? 違う。横に一緒にいてごらん? あなたも反転しますよ。価値観変わるよ。勝ちばっかりやってると救いがたく堕ちます。ブラックホールは個人でやること。やらずにはおれない。孤独です。命を賭けてブラックホールをやるんです

 

 よくわかった。私は静かな感激に打たれ、注がれる言葉にジッと耳を傾けていた。

 

 クマさんは話し込みながらも炊事場を行ったり来たりして、甲斐甲斐(かいがい)しく給仕しながら、またおどけた口調に戻った。

 

「やっぱりィー、当たっててェー」

 

「え? 何がですか」

 

「二十歳のころ、銀座の路上で占い師に手相を見てもらったの。そしたらねェ、あなたに特別な才能はありません、だけど人の才能はわかる人ですって言われたの。私には何の才能もないのォ!? ってガッカリしたわよ、当時は。でもねェ……。テレビ番組でブラックホールの映像見て『天寧さんや!』って思いつくとウットリ。人の才能がわかるってこういうことだったのね。あたしこうやってウットリするのが好きなのー」

 

 両手を合わせて頬に当て、恍惚としている。私はまた噴き出し、興味深くその様子を文字スケッチした。

 

「こんなふうに人の才能を生かせるよう采配(さいはい)を振るうのが政治家だってー。政治家っていうのはスタッフですよ。アンタが前に出るんじゃない!

 

 目前にいない、どこぞの政治家をビシッと叱りつけている。役者の一人漫才を見ているようで面白い。

 

「マジョリティが勝つのが現実なんやなーって思う。有権者の頭はカラッポ。なんでこうなの!? 理不尽! でもそんなこと言って責めてもしょうがない。エーッ、おかしいじゃん、コレがフツーでしょ!? 無理解って言葉好きじゃないけど、一人でもそう思える人を、理解者を増やしていく

 

「味方じゃなくて?」

 

「味方って、敵と味方に分けるみたいでしょ。だから理解者」

 

「あっ! そうか」

 

 壁をなくしたいと思っているのに、自分でも壁をつくってしまう癖(くせ)を自覚した。

 

「うちの祖父はねェ、昔、脱脂綿とかガーゼとか包帯とかつくってうんと儲(もう)けたの。その財産のおかげで今の私があるの。とにかくすべてが奇跡的。神様のプログラム。だからァー、読めませんこの先は。目の前に出てきたプロジェクトをやってみる。〝無理〟 から生存戦略に乗せる!」

 

 そう言い切って、クマさんは自分に活を入れた。私も元気になった。

 

 壁掛け時計を見上げると、夜中一時だった。(終)