障害者は不幸をつくらない
私ではなく、なぜあなたが?
2020年2月17日、横浜地裁であった津久井やまゆり園事件の論告求刑公判で、自閉症の娘を殺害された母親が、こう述べていた。
「勝手に奪っていい命など一つもない」
「あなたが不幸をつくる、生きている価値のない人間」
(2020年2月18日 朝日新聞)
障害者が不幸をつくる。
植松聖被告はずっとこう述べてきた。
精神科医の神谷美恵子は、ハンセン病の患者に「私でなく、なぜあなたが?」と思ったという(出典不詳)。
被告はそう思わないのだろうか?
「私でなく、なぜあなたが?」
「なぜ私が無力な者ではないのか?」
と。
いつ、誰が、無力な人間になるか
人が強大な力をもって生まれてくるか、無力を決定づけられて生まれてくるかは、気まぐれな神の采配、サイコロの目でしかない。
誰がどういう境遇に陥るか、わからないからこそ、自他逆転の可能性を、想像しなければいけないのではないか?
人はいつ事故を起こし、病気になるかわからない。
それでなくても、必ず老いる。
いつ、誰が、無力な人間になるか。
被告は次の瞬間、明日にでも、無力になるかもしれない。
そのように想像しないのだろうか?
被告は生まれた瞬間、無力だった。
その無力を誰かに、育てる大人に「役立つ」と肯定されたからこそ、これまで生きてきたのではないのか?
被告はいつか事故に巻き込まれ、病気になり、老いる時、無力になる。
その瞬間、「自分には価値がない。どうぞ殺してください」と、力ある者に頭を下げるだろうか?
必ずそうできる自信はあるだろうか?
無力な人間の価値
「役に立つ人間になりたかった」と被告は言う。
人を殺すことで役に立つ。
人がその人らしく生きられるよう、助けることが、役に立つということではないのか?
経済成長しか、人間の価値を計るスケールはないのか?
無力な人間に価値はあるだろうか?
人が無力になった時、自分の価値を信じられるだろうか?
赤ん坊は無力だ。
しかし、だからこそ、その笑顔が、母親の心を癒す。
それが赤ん坊の役割ではないのか?
無力な人間は、強いられた無価値を耐える。
無力であることに加え、無価値という二重の無力を。
それが、無力な人間の価値であり、役割ではないのか?
ぬくぬくと自分の価値を信じ、力を振るっている人に、無力と無価値という多重の重責を耐える力はあるのか?
無力なその人しか、無力を耐えることはできない。
それがその人の価値であり、役割ではないのか?
その重責を、無力を背負えない被告の代わりに背負っているのが、その人の最大の価値ではないのか?
無力な人が自分を耐えること。
そこにその人の尊さがあるのではないのか?
不幸をつくるのは
私にも優生思想があった。
自分に対してだが。
この年、最も衝撃的だったニュースは、相模原障害者施設殺傷事件だ。障害者を価値のない人間と考える優生思想によって犯行がなされたと言われるが、他人事ではない痛ましいニュースとして記憶に残った。
犯人が衆議院議長に宛てた手紙をインターネットで読むと、いたたまれなくなって涙が溢れた。聴覚過敏がつらくて耐えがたいときに「自分の命などないほうがよい」と考えていた言葉とまったく同じ言葉が、その手紙に記されていた。犯人のような優生思想の持ち主が日本のいたるところに隠れていて、障害のある人たちをバッシングしようと隙を窺(うかが)っていることを、手紙の文面から感じとった。
この事件のあと、自分に障害があることを隠して、息を殺して生きなければならないような圧迫感を覚えた。
「踏まないで!―ある自閉症者の聴覚過敏手記―」第八章 病む記憶 より
優生思想を自分自身に向けたとき、私は不幸だった。
障害者が不幸をつくるのではない。
あなた。
私たちの中の、あなた(優生思想)ではないのか?