マイノリティ・センス

自閉スペクトラム症の個人的な表現・分析(聴覚過敏多め)

スイレン

辛苦を負う者

もし人間がなんらかの病、――ことに人格や知能の病のために、またはらいの神経痛のような、いてもたってもたまらないような苦痛のために、ふつうの精神機能をうばわれ、単なる「あえぐ生命の一単位」になってしまったとしたらどうであろうか。そういうひとは愛生園にもたくさんみられる。「熱こぶ」で呻吟しているひと、精神の病のために絶望や虚無のなかにおちこんでいるひと、高齢のためにあたまが働かなくなり、ただ食欲だけになってしまったようなひとなど。こういうひとには、もはや生きがいを求める心も、それを感じる能力も残されていないのではないか。こういうひとにもなお生きる意味というものがありうるのであろうか。

 これこそ生きがいの問題を考える者にとって、何よりも一ばん痛い問いである。その痛さをひしひしと身におぼえずには彼らに接することはできない。彼らはみな暗黙のうちに、この痛烈な問いを投げかけているからである。

神谷美恵子神谷美恵子コレクション 生きがいについて』 、みすず書房、2004年、280頁

 

 

  『生きがいについて』の中で一番感動的だったのは、11章「現世へのもどりかた」だった。

 

 年をとるとそれまでの生きがいが失われる。若い人のほうが生きがい感をもちやすい。だからこそ、生きがいを喪失するという危機は、人間が通らなけばならない、克服するのが望ましい一つの「道」なのだろう。

 

 小学生の頃、私は苦しくなかった。天真爛漫に生きていた。しかしあのバラ色の時代は、人生の本筋ではなかった。中学時代から続く「社会への違和感」こそが人生だった。

 

 神よ。私は大いなる何者かに向けて祈る心の中に、救いを求めたのです。

 昔の日記を読むと、10代後半から20代前半の苦しかった頃、信仰に救いを求めていたとわかる。「神は死んだ」――ニーチェ派のアカイシさんは、そんな私に別れを告げた。

 だがこの苦悩、この辛苦の中で、私は生きる救いを求めるのだ。大学時代までの私はそのように生きた。辛苦を生きる人間には、救いが、もっと言えば信仰が必要だ。

 

 Yを、Tを、Eを見よ。彼らは祈っている。

 あなたは彼らを嗤えるか?

 彼らはあなたほどの高みからものを見ることはできず、地べたを這いずりながら、自由のきかぬ固定された視界で、限定された風景を見ている。地べたを這いずる者は常に<当事者>なのだ。

 彼らを嗤うな! ――そして彼らに救いを。

(2018.1.15日記)

 

 

  *  *  *

 

 

【修羅の祈り】

 

わたくしは争いに明け暮れました
十字架の重みにひしがれて
遂にひらたい原生動物となり
地べたを這いずっております
見下ろすことのない一つの目は
固定された視界で 局限された風景を
眺めるしかございません
灯台よ あなたはその明晰な眼光で
空からわたくしのうごめく全容を
明らかに象ります
灯台よ あなたの視線は
世界をくまなく網羅するほど高いのです
しかし 修羅の道は
地を這うしかないものです
わたくしは登りましょう 這いながら
偽足をあなたの壁に伝わせながら
灯台よ あなたの見開いた目をわたくしの
淀んだ半眼に嵌め込みましょう
けれども もし失敗した暁には
灯台よ わたくしは修羅の祈りを
あなたの頭上に掲げましょう

(2018.9.4)

 

追記:スターありがとうございます(*´∇`*)