発達障害について何が言える? パトスの思いつきでものを言うのに嫌気が差した
聴覚過敏のリハビリに、病院で音に“被爆”しながら、スマホで記す。
ロゴスのない文章が嫌になった
2011年から2013年までの記事は、発達障害について思ったことを思ったままに、ポンと吐き出すように語っていた。
針のような直感をもち、下手なりに詩を書き、パトス(情念)が優勢な私の物の見方は、「鋭い」こともあったかもしれない。
けれども、あるとき嫌になった。
みずからのロゴス(論理)の乏しさに――。
思いつきでものを言う。素直。
それは大事かもしれない。
けれども論理は、ロゴスはどこにある?
何も知らない、何も言えない
発達障害について「知っている」のは、じかに体験したことだけだ。
しかし、失敗した、失敗したと惨めな日常をさらす情けなさ。
では、発達障害「論」を語るか?
自己分析できる。やれないことはない。
しかし、論理を展開するには、根拠があまりに乏しい。
何十年と受け継がれる、質の高い過去の文献を、調べて分析しなければ、ものなんて言えるものではない。
発達バブルの現在、山のように溢れる情報の不確かさ。胡散臭さ!
発達障害ひとつ取っても、正確なことは何も言えない。
自分が体験したことしか語れないのだ。
「ものを言う」にはあまりに、精緻に裏を取る余裕なく、根拠は乏しく、ロゴスが足りない。
私は何も知らない。
そんな自分に苛立つ。
思いつきでパトスをぶちまけ、いい加減なことを言う自分が、嫌になった。
過去記事を読み返すのに抵抗があるのは、そのせいだ。
ものを言うのは難しい
けれども今度は、そんな萎縮した状況にも嫌気が差す。
日々、山のように思い、考えることがあるのに。
ロゴスが足りない自分を、私は猛烈に恥じている。
だからと言って、パトスを押さえつけていると、自己表現の最初の一歩が踏み出せなくなる。
語らず萎縮するのは、避けたい。
それに、パトスしかない文章にも閉口するが、ロゴスばかりの文章も、つまらないものだ。
「ものを言う」のは、難しい。
パトスの力を借りて自己表現の一歩を踏み出し、ロゴスの羽でより高く飛びたい。
そんな文章が、書きたい。
* * *
書き始めて1時間半。ここで筆を置く。
音に乱されず、集中して書けた。
いつしか音は、「違和」ではなくなっていた。