マイノリティ・センス

自閉スペクトラム症の個人的な表現・分析(聴覚過敏多め)

スイレン

楽しいってなんだ? 変化を楽しむ者と常同環境を突き抜ける者

「楽しい」は今生まれ、消える

楽しいことがあった日、忘れないよう小説に書いた。

小説を読み返すと思い出して、心が温まるが、視覚的な手がかりがない状態だと、記憶がぼやけていく。

私の場合、目に見える手がかりがなければ、楽しいことであっても、忘れやすいかもしれない。

 

楽しいことは「今この瞬間」生まれ、消えるものであって、あまり残るものではない。

アルボムッレ・スマナサーラ氏がいうとおり、感覚は苦であり、それが生命を覆っている。

十代の頃、苦を駆逐する楽を見出し得ないのを発見した。

どんな「楽しみ」も、「苦しみ」にはかなわない。

「安らぎ」であれば、「苦しみ」を多少打ち消すことができる。

しかし、「楽しみ」にそのような力はない。

「安らぎ」は生の "打ち消し" (-)だが、「楽しみ」は "盛り" (+)だ。

生は(+)だ。プラスにプラスをかけると、業は増加する。

「楽しみ」に効果があるとすれば、心と頭を回転させることで、嫌な記憶を忘れやすくなることだ。

そのことが「安らぎ」をもたらすなら、マイナス(ー)は増加するだろう。

 

楽しい瞬間は私にもある。

たとえば今日、発達障害のイラストを描き上げた時、「これがあれば発達障害のことを人にわかってもらえるかもしれない」と嬉しかった。ホッとした。

その瞬間、ワクワクしていたのかもしれない。

今でもこの絵を見ると、心が温かくなる。

昨日は、とある本にツッコミを入れながら思考しているうちに、「こういう考え方をすれば、問題を解決できるかもしれない!」と嬉しかった。

それは、ワクワクとはいえないまでも、心のテンションが少し上がる出来事だった。

 

「嬉しい」「やったぁ」と思うことは多々あるが、「楽しい」感情とは違うのかもしれない。

今は鬱なので、楽しくなくても、「苦しくない」瞬間があるだけでありがたい。

 

「楽しい」のは "今" だ。

過ぎ去れば虚しい。儚く消滅してしまう。

楽しい瞬間は確実に存在する。

しかし、感覚の苦がそれを塗り替える。

私にとって「楽しい」は虚妄(だがその瞬間は現実)で、「苦しい」が現実。

 

本を読んでいると、「わかる」とひしひし感じることがある。

その瞬間は楽しい。楽しいというより嬉しい。

しかし、鬱で再び文字が頭に入らなくなって、理解の通路が閉ざされる。

その瞬間は苦しい。

そして私は、どちらの瞬間にもリアリティを感じているが、「楽しい感じを思い出す」ことはあまりないのかもしれない。

思い出しても、記憶が煤けているようで、生き生きしていない。

 

 

鬱が「楽しい」を奪う

今は鬱だ。考えてみると、このような状態で考えるから、このような発想に傾くのかもしれない。

鬱時に書いた文章だから、後ろ向きな文章になるのであって、「楽しい」時に考えると、また別の発想が生まれるかもしれない。

 

鬱が前面に出ると、どうしてもそれが強力な感情になってしまって、「楽しい」思い出は煤けてくる。

心が「楽しい」を想起できなくなる。

 

鬱が楽しむ能力を阻害している面が大きい。

鬱になると、心の活力は確実に失われる。

私の場合、鬱に陥るのは、対人関係と環境変化の不適応が大きい。

私は、変化に強いドナ・ウィリアムズとは違って「同一性保持の欲求」が強い。

変化に非常に弱く、環境が変わるたびに鬱に突き落とされる。

 

 

楽しみは変化の中にあるのか?

ドナには「変化に乗じる」余裕がある。ADHDの人も。

変化にさほど衝撃を受けず、恐怖を覚えず、むしろ楽しむ。

楽しみとは、変化に乗じることができる人が持ちやすい感情かもしれない。

環境変化に激しく動揺する私のような人間は、楽しみづらいのかもしれない。

 

変化のない、いつまでも同じことを繰り返す営みの中で、楽しみを感じられるか?

常同環境は、楽しみというより安心である。

いつもと同じという安らぎ。

私が楽しいと思う時は、行きつけの本屋をうろついている時のように、「常同環境から隣にズレるように少しだけ変化」している時が多い。

 

そう考えると、楽しみの要件は変化なのかもしれない。

変化しても衝撃を受けない、臨機応変に対応できる、変化を楽しめる人が羨ましい。

とはいえ、変化に衝撃を受けるのが私なのだから、変化に強いドナのような私でありたい! と望むわけにはいかない。

 

 

常同環境を突き抜ける能力

しかし、常同環境に安らぎ、さらに突き詰める者は、変化する者にはない力をもっている。

それは、「裏面へ突き抜ける」能力である。

 

裏面というのは、この世にはない「向こう側」の世界だ。

ゲームや漫画でよく裏ステージとか、パラレルワールドという。

ブラックホールは突き抜けると、ホワイトホールにつながっているというイメージ。

 

変化は手回し発電機のように、解放されたエネルギーを生み出す。

一方、停滞は? 停滞は多くの場合、虚無だ。

しかし、その場に留まり続けることで、手回し発電機が生み出す遠心力とは逆の求心力が発生する。

そして求心力がこの世界の根底を突き破った時、どこにもない裏世界が出現するのである。

 

私たちが見ているのは、砂時計の中心のくびれから上の領域である。

しかし、世界には裏がある。砂は、少しずつ、下の領域へも流れている。

さらに世界には、表裏もあれば、「間」もある。