〈定位〉から考える聴覚過敏2 〈定位〉の発見(1) この世界と私の身体の接地点
聴覚過敏について解説された本1)を読んでいて、重要なキーワードになりうると思ったのが<定位>という概念でした。最初は訳(翻訳書だった)が悪いと思って、もっとわかる日本語に訳してほしいと文句を言っていたのですが、ふだんあまり聞かないこの言葉は何だろうと辞書で調べたところ、
一、事物の位置・姿勢などを定めること。また、その定められた位置・姿勢など。
二、生物が身体の空間的位置や姿勢を能動的に定めること(傍点は筆者による)。また、その位置や姿勢。
三、測定器などで、一定の大きさの入力が加えられたとき、または入力が一定の大きさだけ変化した場合、出力がそれに対応した状態に落ち着くこと。
とあって(大辞林)、聴覚過敏という大しけの海の中であっぷあっぷして、必死にバランスをとろうともがいている自分の姿にぴったり一致するように思われました。
私の聴覚は、身体の表面を境界にした内界と外界の生物や物質がうごめく「気配」を、精細にスキャンするように感知します。
耳栓をつけた状態における身体の内部では、呼吸音、髪が顔にまとわりつく音、関節がきしむ音、頭の血管が規則的にふくれる音、つばを飲み込んだりかんだりする口の中の音、空気がキーンと緊張する耳鳴りのような気圧を聞きます。
耳栓をとって部屋の環境に向かうと、マウスとキータッチの操作音、パソコンのCPUの処理音、体重を受けて椅子が沈む音、床に接地する自分の足音、服の繊維がこすれる音、電化製品の換気扇が回る音、水道管の反響音、時計の規則正しい針の音、もう少し遠くなると子どもの甲高い声、タイヤの走行音、電車が線路を高速で走り抜ける音を聞きます。
さらに近所の川辺を散歩すると、ピリリリとかジージーとかチチチという草むらにひそむ虫の羽音が多種類、ピイッピィッとかホーホーとかパタタタッという鳥の鳴き声や羽音が多種類、川に飛び込み、滑り、ピチピチはねる魚や鳥の水音が多種類、スオーッとかガタタタッとかガァーッという車や電車の走行音が多種類、農家や外国人の会話、鼻歌、運動場でスポーツする若者のかけ声など人の声が多種類。
その間じゅう自分のはずんだ呼吸、堤防のアスファルトを踏みしめる足音、かばんの中でリンリン鳴る鈴つきの鍵、雑草が風になびいてカサカサ揺すれる音。その隙間をぬって、どこかわからない遠方から、背後から、上空から、急に目の前に現れたように、とるに足りない些細な音が、たとえば枯れ葉がカサッと地面に落ちる音とか、カラスよけの装置が回転する音とか、ボールがはずむ音とかが飛び込んできます。
とにかく数が多くて、細かくて、三六〇度全方位からなのです。好き/嫌い、心地良い/悪い、必要ある/ない、重要/重要でないにかかわらず、微に入り細にわたってあちこちから拾っています。種々雑多な音が四方八方から勝手に乱入してくるという感じです。
冷静に聞けるのはここまでです。これ以上は痛くて、恐ろしくて、聞いていらないことがしばしばです。最も体調が悪い状態では、すでに述べた多くの「気配」のうち空気でさえも、首筋にこもる圧覚を生じさせます。痛みは、聴覚過敏を悪化させる最大の厄介な記憶です。痛みと記憶がなければ、聴覚過敏について詳細に分析しようと試みる動機と必要は生じません。特定の音が否定的な学習に結びついた場合、音を聞くことがそのまま「記憶を聞く痛み」となって、何度も再現されることになります。
ところで聴覚は、生物や物質がうごめく「気配」をスキャンするだけではありません。スキャンしたうえで、身体の内部にある領域を、外界の空間に接合させるように<定位>するのです。意識が身体の外に出て、人間を含む地上の生物が生活を営む世界に降り立ったとき、私は地面に足を踏みしめ、両耳をそばだてて、自分がこの動揺する空間の中にいかなる着地点が許されているか、身体を揺らしながら微調整します。常に流動する世界との関係のなかで、自分の定位置を検索しようと試行錯誤します。
私はプールで水泳の練習をするように、この地上世界に張っている水槽の上に全身を浮かべ、身体全体で騒音という水流と格闘します。この世界の騒音と私の身体は、常に全身でぶつかり合って、妥協点を探しています。ざぶんと飲み込まれたり、うまく波乗りしたり、全身で押し合いへし合いしています。皮膚感覚のように、身体はこの世界の騒音に接しています。右手を突き出せば水流が抵抗し、左肩を引けば後方に流れる。足をばたつかせれば飛沫が上がり、顔をあおむければ空気の層に出る。全身でバランスをとるスポーツ。それが私の身体とこの世界の騒音の接地点です。
それは、身体を動かさなければ溺れてしまう世界です。聴覚過敏は複雑な心のしくみがつくり出した捉えがたい現象ですが、最後にそこで泳がなければならないのは身体です(こうした運動を、水泳ならぬ<音泳>と名づけています)。身体は勝手にこの世界の騒音と接触(音泳)していますが、意識の目の届かないところで、身体が自分の都合のいいように勝手に環境を構成したり、壊れていったりしています。