SNS不安 (7)まとめ 直接的で粗暴なつながり
私のSNS不安は、広場恐怖、社交不安、緘黙に近いと自覚している。最も恐れているのは、「直接的で粗暴なつながり」である。
図4は、これまで述べてきたSNS不安の全体像を描いたものだ。
SNSのネットワークには、すでに述べたように、脊髄反射的な感情判断が溢れている。ツイッターのタイムラインを「上空飛行」してツイートを見下ろすと、その情報の見かけは極めて平板で、濃淡や深みがないノイズに見える。そこに漂っているのは、群衆の「集合意識の束」である。
私が誰かをフォローし、フォローされると、SNSの全体網から自己の境界内に、関係の糸がつながる。私の自我には核があり、自己と他者を隔てる境界もはっきりしている。その境界線から外界に至る〈扉〉に当たるのが、SNSのアイコンである。「通知」されることによって、すでに〈扉〉は勝手に開けられ、侵入感を感じている。
タイムラインを「低空飛行」し、ツイートの細部に焦点を当てて情報を確認すると、人々のむきだしの情緒的反応である〈思念〉と〈感情〉が、私の意識に大量に雪崩れ込んでくる。このノックアウト感が侵入だ。そのつながり方はあまりにも直接的で、粗暴で、ビビッドで、厚顔無恥で、無遠慮であると感じる。自己を侵食されるのではないかという恐れと不安を抱く。侵入されていると感じると、立ち上がりかけている私のハート(参加の意思や共感)は、腰を折られたように萎える。
ネットワークが少なく個人の核がある人、あるいは死者や動物との一対一のかかわりには侵入感がないが、SNSに接続すると、「ウッ!」と何かに圧迫され、胸がつかえる抵抗が生じる。ネットワークを介して、大量の〈思念〉と〈感情〉が勝手に流入してくると、私はしだいに自己意識を統合する感覚を消耗していく。
〈扉〉を閉め、ネットワークを切り、侵入されない時空間がほしい。いつでもどこでも勝手に入ってこられるのはごめんだ。SNSの「通知」もタイムラインも必要ない。自分から〈扉〉を開けて見に行く。
直接性は粗暴で気持ち悪い。緩衝が、あいだが必要だ。電子を介した直接的な〈感情〉の束縛(ネットワーク)ではなく、間接的な心の通い合いが。