マイノリティ・センス

自閉スペクトラム症の個人的な表現・分析(聴覚過敏多め)

スイレン

自己表現したいのにできない人の隣で

自閉症のひとが、自己表現できない苦しさはよくわかる。

表現を試みても、まったく意図しないコトバや態度が出てきてしまい、まわりを誤解させてしまう悔しさも、違和感も、よくわかる。
 
そのことに、自分で気づいていないひともいる。
自分が自己表現できないということにすら、気づかない、厚い壁。
厚すぎて、自分が果たして表現できる気持ちや感情を持っているのかすらわからない。
一方、壁の存在に気づいていても、諦めてしまって、あえてやらないひともいる。
訓練生にも、あきらかに表現と内面の伴わないひとがいた。
ああ、自己表現できないのだな、と思った。
 
そこで、自己表現の手伝いができるか試みて、思ったこと。
無理に、表現させてはいけないし、どちみちできない。
自閉症者には、おそらく、上に書いたタイプのひとがいる。
 
ある程度できる人。
やりたくても、できない人。
やりたくても、できないと思いこんで、やらない人。
できないと思いこんでいるので、やりたくない人。
できるかもしれないけど、やりたくない人。
 
本当にやりたくない人は、放っておいてもかまわないと思う。
でも、「自己表現したいのに、できない人」は?
 
私は、猫と遊ぶ場面を思い出す。
猫と気持ちを通じ合わせるには、猫と同じ体勢になって、同じ声を出して、同じしぐさをして、同じ世界を体験しようとする。
つまり、同じ表現形態を真似る のだ。「隣」で、姿勢を同じくして。
そうすると、一緒に遊んでくれる。ますます笑ったり怒ったりして表現をしてくれる。
これと同じ感覚がよいのだろう。
 
自閉症者を、ひとつの生物のように見る。
流暢な言葉も一般化された表現も持たない、鋭敏な感覚をもった野性の動物。
歌うのか、絵を描くのか、文字を書くのか、それとも身体を独特の調子で動かすのか?
その人固有の、その人が得意な、表現形態がある。
どういう表現形態を持っているか、よく観察する。
そして姿勢を同じくして、その表現形態を真似る。
言葉をかけるときは、適度のタイミングで、やわらかく、まるでその人には「あなたに話しかけている」という意識を持たせないような身軽さでフッと語りかけたあと、すぐに去る。
そしてこれを繰り返す。
いつか、相手はなんらかのサインを示してくれるかもしれない。
そうなれば、自己表現の小さな一段階をクリアできるかもしれない。