バンパイア=発揚性性格者 vs HSP=敏感性性格者
繊細で傷つきやすい人が自分の心を守るための本
加藤諦三著『「自分の心」をしっかり守る方法』を読みました。
これは、繊細で傷つきやすい人が、自分の心を守る方法について書かれた本です。
何気なく手にとって読みましたが、自分の生きづらい性格をこれでもかと解き明かしていて、大変参考になりました。
読んだ後、心が明るくなりました。
敏感性性格者
敏感性性格者とは、小心で、繊細で、傷つきやすい内面を持ちながら、野心は人一倍ある人間です。
くよくよ悩むばかりで、なかなか行動に移せず、弱気なところがあります。
敏感性性格の人は「繊細な傷つきやすい野心家」「過剰な自意識のある野心家」である。この繊細で傷つきやすい名誉心が「喉に刺さった魚のトゲ」である。(『「自分の心」をしっかり守る方法』、三笠書房、83頁)
敏感性性格の人は刺激を受けやすいし、感受性が強い。つまり印象能力が高い。そしてある体験が意識の中に入ると、たびたびいうように、なかなか発散されない。つまり保持能力も高い。(同書135頁)
自分に当てはまるなぁと。
繊細で感じやすく、常に外界の環境や人から「圧されて」緊張しているのですが、内に秘めた怒りや悔しさは大きい。
絵にするとこんな感じでしょうか。
野心とは、詩人になる望みに敗れて虎になった中島敦「山月記」の主人公・李徴(りちょう)が抱いている、「臆病な自尊心」のことだと思います。
臆病なのに、ここは負けないぞクソー!と悔しがる、突っ張ったプライドは持っている。
発揚性性格者
こうした敏感性性格者にとって最大の脅威となるのが、発揚性性格者です。
発揚性性格者とは、強力な行動力と感情を持ち、相手に自分の感情を押しつける利己主義者のことです。
ひかえめな人間にとってかなわないのが、情緒的に未成熟な強力型の人間である。強力型なのであるが、利己主義で自分本位な人間というのは、ひかえめな人間にとってはたまらない。このタイプは相手の立場を考えないで、自分を一方的に主張する。その主張の仕方が強力なのである。
ひかえめな人間にとってさらに耐えがたいのは、クレッチマーのいう発揚性性格者である。(同書97頁)
敏感性性格者が無力性に強力性のトゲが刺さっているとすれば、発揚性性格者は強力性に無力性のトゲが刺さっているとクレッチマーはいう。(同書97頁)
トゲトゲしたアイデンティティの見かけの外殻の中に、凹んだ自我がある。
このアイデンティティの型は、敏感性性格者のそれと真逆です。
刺激されやすくてエネルギッシュなのであるから、すぐに怒って相手を犠牲にすることなどなんでもない。
要するに、利己的でずるくてたくましいのである。気の弱い人間やひかえめな人間を踏み台にして自分の利益を求めていき、しかもそういうように他人を踏み台にしたということでは決して傷つかない。
(中略)発揚性性格的な者というのは、相手を利用できるかぎりにおいてはよく相手とつきあう。自分は敏感性性格だと思う人は、できればこの発揚型の人とはコミットしていかないことである。(同書98~99頁)
発揚型の人は鈍感で、陰湿で、繊細な人間を踏み倒すから、たまりません。
過去、職場で私をいじめたのは、ほとんどこのタイプです。
私にとっては、できるだけ避けたい苦手な人間です。
バンパイア=発揚性性格者 と HSP=敏感性性格者
高橋敦さんは『「敏感」にもほどがある』で、全く同じことを語っています。
バンパイアはHSPの感受性をするどく嗅ぎつけます。そしてエネルギーを吸い取るために、HSPの自尊心を傷つけたり、わざと混乱させる物言いをします。バンパイアには感受性を向けないこと、そしてエネルギーを奪われないことが大事。
(高橋敦『「敏感」にもほどがある』、きこ書房、149頁)
HSPは敏感性性格者、バンパイアは発揚性性格者におおかた当てはまると思います。
バンパイアのアイデンティティの、見かけの外殻のトゲが、HSPのアイデンティティの外殻を浸食してエネルギーを吸い取る。
こうして敏感性性格者は、発揚性性格者の餌食となります。
それにしても、高橋さんのバンパイア対策(同書150頁)
- バンパイアに感受性を向けないようにする
- 自分のエネルギーを渡さないようにする
- 相手の攻撃に対してはむしろエネルギーを吸い取る
のうち、1がとりわけ難しいです。3も高度。
バンパイアの攻撃を阻むために、感受性をさらに働かせ、相手を感知し、探索してしまうのです。
相手を知り、理解するために、感受性を協働して思考してしまう……。
いったいどうしたら、このピリピリした強烈な感受性を抑えることができるのか……。
ちなみに、加藤諦三が説く対処法の要諦はこうです。
自分を不当に傷つけた者にきちんと抗議せよ。
憎しみを消し、怒りを勇気に変えよ。
障害者は不幸をつくらない
私ではなく、なぜあなたが?
2020年2月17日、横浜地裁であった津久井やまゆり園事件の論告求刑公判で、自閉症の娘を殺害された母親が、こう述べていた。
「勝手に奪っていい命など一つもない」
「あなたが不幸をつくる、生きている価値のない人間」
(2020年2月18日 朝日新聞)
障害者が不幸をつくる。
植松聖被告はずっとこう述べてきた。
精神科医の神谷美恵子は、ハンセン病の患者に「私でなく、なぜあなたが?」と思ったという(出典不詳)。
被告はそう思わないのだろうか?
「私でなく、なぜあなたが?」
「なぜ私が無力な者ではないのか?」
と。
いつ、誰が、無力な人間になるか
人が強大な力をもって生まれてくるか、無力を決定づけられて生まれてくるかは、気まぐれな神の采配、サイコロの目でしかない。
誰がどういう境遇に陥るか、わからないからこそ、自他逆転の可能性を、想像しなければいけないのではないか?
人はいつ事故を起こし、病気になるかわからない。
それでなくても、必ず老いる。
いつ、誰が、無力な人間になるか。
被告は次の瞬間、明日にでも、無力になるかもしれない。
そのように想像しないのだろうか?
被告は生まれた瞬間、無力だった。
その無力を誰かに、育てる大人に「役立つ」と肯定されたからこそ、これまで生きてきたのではないのか?
被告はいつか事故に巻き込まれ、病気になり、老いる時、無力になる。
その瞬間、「自分には価値がない。どうぞ殺してください」と、力ある者に頭を下げるだろうか?
必ずそうできる自信はあるだろうか?
無力な人間の価値
「役に立つ人間になりたかった」と被告は言う。
人を殺すことで役に立つ。
人がその人らしく生きられるよう、助けることが、役に立つということではないのか?
経済成長しか、人間の価値を計るスケールはないのか?
無力な人間に価値はあるだろうか?
人が無力になった時、自分の価値を信じられるだろうか?
赤ん坊は無力だ。
しかし、だからこそ、その笑顔が、母親の心を癒す。
それが赤ん坊の役割ではないのか?
無力な人間は、強いられた無価値を耐える。
無力であることに加え、無価値という二重の無力を。
それが、無力な人間の価値であり、役割ではないのか?
ぬくぬくと自分の価値を信じ、力を振るっている人に、無力と無価値という多重の重責を耐える力はあるのか?
無力なその人しか、無力を耐えることはできない。
それがその人の価値であり、役割ではないのか?
その重責を、無力を背負えない被告の代わりに背負っているのが、その人の最大の価値ではないのか?
無力な人が自分を耐えること。
そこにその人の尊さがあるのではないのか?
不幸をつくるのは
私にも優生思想があった。
自分に対してだが。
この年、最も衝撃的だったニュースは、相模原障害者施設殺傷事件だ。障害者を価値のない人間と考える優生思想によって犯行がなされたと言われるが、他人事ではない痛ましいニュースとして記憶に残った。
犯人が衆議院議長に宛てた手紙をインターネットで読むと、いたたまれなくなって涙が溢れた。聴覚過敏がつらくて耐えがたいときに「自分の命などないほうがよい」と考えていた言葉とまったく同じ言葉が、その手紙に記されていた。犯人のような優生思想の持ち主が日本のいたるところに隠れていて、障害のある人たちをバッシングしようと隙を窺(うかが)っていることを、手紙の文面から感じとった。
この事件のあと、自分に障害があることを隠して、息を殺して生きなければならないような圧迫感を覚えた。
「踏まないで!―ある自閉症者の聴覚過敏手記―」第八章 病む記憶 より
優生思想を自分自身に向けたとき、私は不幸だった。
障害者が不幸をつくるのではない。
あなた。
私たちの中の、あなた(優生思想)ではないのか?
過敏な人に! 『「敏感」にもほどがある』を読んで
『「敏感」にもほどがある』を本屋で立ち読みして、バカウケしたので、即買いしました。
HSP(highly sensitive person 敏感すぎる人)の日常について、四コマ漫画を交えて書かれた本です。
漫画だけでもめちゃくちゃ笑えるのですが、自己分析した文章が素晴らしい。
引用しながら思ったことを書きます。
これは自分!?
漫画の内容は、
- 人といるだけで疲れてしまう
- 他人の体調や感情が気になる
- 先のことをクヨクヨ考える
- 肌触りが気になる
- カゲが薄い
- 感動しやすい
- 注文するのが苦手
- 人が怒られているのを見るのがつらい
- 模倣が得意
- 頼まれやすい
- 緊張を引きずってしまう
- 現実的じゃない
- 意識が拡大してしまう
- 神様気分
- スキンシップが苦手
- 怒るとひかれる
- DVに遭いやすい
- 知りたくもない秘密を聞かされる
- 言葉がずっと心にひっかかる
- ぐさっとくることを言ってしまう
- 相手の性格を鏡のように反射する
- 裏道愛好家
- バンパイアにおそわれやすい
- 居場所が見つからない
- 会社勤めがつらい
- スピリチュアルにはまりやすい
- フリーランスをめざす
- 朝が来るのが怖い
- 仲間を見つける
- 人との距離のつかみ方
- 付きまとわれないために
- バンパイアの被害に遭わないために
- 自分の感受性を自覚する
- なぜ社会の中で生きづらいのか?
- HSPは本来パワフルでクリエイティブ
- HSPが人類を救う
こ、これは……!
まるで自分のようだ……。
90%以上当てはまっているかも?
私に似ている人がいる! と安心しました。
著者・高橋敦さんのブログも訪問して、ハマりました。
だいたい全部読みました。
気に入ったので、リンクを張らせていただきます。
こんな人が存在するなんて、心強い限りです。
発達障害者とHSPの違い
アスペルガー症候群は五感が鋭いけど、HSPは人に対する感受性が強いそうです。
自他の境界が薄く、他人が気になってしまう。
著者は他人にエンパシー(感情移入)しすぎて、生きづらさを抱えています。
近いものがあります。
……ってこれは、ドナ・ウィリアムズ『自閉症という体験』の内容そのものじゃないか!
〈他者のみ/自分なし〉の世界。
私は『自閉症という体験』と聴覚過敏によって、エンパシー力が上がりました。
その結果、著者の感覚により近い感覚がわかるようになりました。
聴覚過敏に応用できる?
自分を中心として注意の範囲を狭めていき、最終的に自分自身に注意を集めていきます。舞台の上で自分自身がスポットライトを浴びている感じです。
これは「俳優修業」スタニスラフスキイ著(未来社)という本にある、「注意の輪」という訓練法です。俳優がステージでスポットライトを浴びているように注意の光を自分自身に集めるのです。
(中略)このエクササイズをやっていると、敏感な人ならばピリピリというかグワングワンというか、頭が混乱するほどの刺激を感じるはずです。マイクとスピーカーを近づけてハウリングしているような感じです。
このいたたまれないピリピリ感こそHSPが他人に向けている発信している「感受性」です。
(高橋敦『敏感にもほどがある』、きこ書房、155頁)
す、すごい……!
常にエネルギーを放出し、感じているのですね。
よくわかります。ビビッとくる表現です。
「自分の感受性を自覚する」ということだけです。感受性とどう折り合いをつけるかは自分の感受性と相談するしかないと思うのです。
(中略)敏感すぎる感受性は、私自身です。やっかい者ではなく、自分の中にいる愛すべき子どものように考えるべきです。そうすれば、感受性も応えてくれます。
(中略)大切なのは、自分の感受性が暴走しているということに気づくことです。自分の中の子どもが泣き叫んでいると思ってください。そしてあやしてあげましょう。自分の感受性が今、どんな状態にあるのか、それに意識を向けるのです。あなたの感受性はあなたに気付かれるのを待っています。
(中略)HSPはじっとしていれば自分のエネルギーをますます感受性に注ぎ込んでしまいます。ですから行動にエネルギーを使うことで感受性に費やすエネルギーを減らすという方法もあると思います。
(同書、156~158頁)
聴覚過敏に応用できそうです。
私も常にピリピリが身体中に走っています。
電磁場みたいなものです。
そしてまわりの世界のピリピリを、勝手に感受してしまいます。
この刺激が暴走しないように、アンテナの方向を変えると。
それはちょうど、同じ媒体中におかれた二つの物質が、共振を起こして響き合っているようなイメージ
この共振というか、磁気というか、霊感というか、ビリビリというか、テレパシーというか、電流のようなエネルギーを、自分の内部に向けて感じればよいわけですね。
感受性が高い人の役目はなんだろう?
HSPの高い感受性は、それを持つ当人が生きやすくなるために与えられたものではありません。種の保存という、個人的には関係ない理由で勝手に組み込まれた回路みたいなものです。
(中略)生態系がサイコロを振って「当ったりぃ! キミ、そういう訳だからよろしくねっ!」って2割の生体に高い感受性を組み込んだのです。「贈り物」というより「役目」でしょうか。役目ですから、基本的にはそれを果たすことが前提となっているようです。
(中略)「いろんなこと見張って、おかしな兆しを見つけてね」って言ってるだけです。いろいろ制約はありますが、なるべく苦労を避け、個人的に活かせるものは活かしてHSPらしく生きていけたらと思います。
(『敏感にもほどがある』、162頁)
感覚過敏の人の役割はなんだろう?
考えさせられます。
よく言われるように、「炭鉱のカナリア」が思い当たります。
社会の危機を真っ先に察知する。
私も予感というか、予知覚がテレパシーのように張っていて、「これはヤバイ!」という感じに真っ先に反応します。
やっぱり理解されないのか…
話したいことがあっても、感受性の違いから人にはほとんど理解してもらえません。気遣いさえも伝わらないことが多いです。
組織の管理や干渉はHSPの苦手とするところです。大勢の人を1つの部屋に集め刺激過多になっている職場、上司や組織の意向を気にして自己裁量の少ない管理体制、同僚と反目しあうような競争、こういった環境では、そこにいるだけでHSPは消耗してしまいます。
普通の人はそういった環境に適応していきます。社会人になることは、自分の感覚や考え方を社会に合わせて変えていくことなのかもしれません。しかしHSPにとって、それは死んでゾンビになれと言われているようなもので、いわゆる世間には染まれないHSPがたくさんいると思います。
(同書、165頁)
自分の感受性を押し殺されることは、ありのままの生きた自分が殺されること。
そして、特異な感受性の持ち主は、なかなか理解されない。
激しく共感します。
まとめ 過敏に悩む人に
自閉症圏の人には、身に覚えのある感覚満載でしょう。
特に感覚過敏の人には、教訓が多く含まれています。
ドナ・ウィリアムズの『自閉症という体験』を読んだ人なら、「このことか!」とピンと来ます。
ただ「人の気持ちがわからない」ことに悩む自閉症圏の人は、「自分とは少し違う」と違和感を覚えるかも。
著者は、人の気持ちにエンパシー(感情移入)して、影響を受けすぎるのです。
漫画は文句なしで笑えます。
過敏に悩む人におすすめできる一冊です。
自閉症の人は「努力」しないという先入観
知り合いの躁鬱病持ちD氏に手記原稿を見せた。
そこには、思春期の内面における葛藤と、職場いじめなど社会に出てからの闘いを記していた。
D氏はこう指摘する。
「自閉症の人でここまで努力しているのは少数派でしょうね」
「は?」
なぜそんなふうに言えるのか?
違和感を抱いたので、私見を述べる。
自閉症の人は努力しないという先入観
知る限り、D氏は自閉症の本を一冊も読んだことがないはずだ。
自閉症の人に一人もかかわったことがないはずだ。私以外は。
理解どころか、自閉症のことを何も知らない。
そんなD氏はこう思っているのだろう。
「多くの自閉症者は努力しない」
こうした考えあって、さきの発言が出てきたのだろう。
そもそもなぜこういう発想が出てくるのか。
自閉症 → 自分に閉じこもっている → 外的経験が乏しい → 努力しない
という短絡的なイメージだろうか?
自閉症の人には、努力しすぎてボロボロになった人、もう努力すらできなくなった人がいる。
努力ではなんともならない、自分の適性にない能力は、努力でなく工夫で補っている人もいる。
D氏は「努力」をどう捉えているのだろう?
あれをやったとか、これをやったとか、「具体的な苦労」で揉まれ、外的経験を積むことだけを、「努力」と考えていないだろうか?
自閉症者の2つの闘い
自閉症の人の「闘い」には二方向ある。
一方向は、外部の世界で「もめる」こと。
学校や職場になじめなかったり、いじめられたり。
定型発達者の何倍も苦労しているのだ。
もう一方向は、内部の世界で「もめる」こと。
発達が遅れていたり、乱れていたりする自閉症者は、常に内面の葛藤に引き裂かれている。
普通の人が1や2の労力をやっていることを、100や1000の労力でこなさなければならないのだから、努力どころか「戦争」である。
目に見える外的経験の有無だけが、人間の成長ではないし、闘いではない。
「努力」以上のエネルギーを使って、常に戦争している。
根拠のない先入観
「自閉症の人はみんな努力しない」
これは根拠のない偏見であり、先入観であり、イメージだ。
こうした先入観を抱く前に、生身の自閉症の人を知ってほしい。かかわってほしい。
解説書や当事者の手記を、せめて啓発パンフレットを見てほしい。
まず実態を知ってから、ものを言ってほしい。
「自閉症ってこんな感じ」というイメージは、あなたのつくり上げた先入観でしかない。
ブログを読んでいただきありがとうございます
はてなスターと読者ボタンを押していただいた方、ありがとうございます。
プロフィールは見ていたのですが、そこからブログにたどり着けることに全然気づかず。
今ようやく気づきました……。
よもやこんなところにリンクが張られていようとは……。
わかんないよこんなの!(゚Д゚)
「ペンの形をしているアイコンは、何の変哲もない形ですが、実ははてなブログを意味します。
ここを押せば、○○さんのブログをご覧いただけます。
心置きなくクリックして旅立ってください。」
ぐらい説明してくれないとね……。
はてなの使い方がいまだによくわかりません。
日々、鬱気味なのと、症状に喘ぐのとで、なかなか意識を外に向ける余裕のない私ですが、今度じっくりブログ巡りしようと思います。
記事を読んでいただきありがとうございました。
社会に理解を求めること、断念すること――二つの道の消失点【統合失調症者Tとの対話】
社会に理解を求める
「未成年の時はマイノリティだった。親が守ってくれて、まわりの人は通り過ぎていくだけ。けれども大人になってメジャーになる。自分もまわりから見たら通り過ぎる一人にすぎない。みんなと同じ一員とわかる。失楽園」
統合失調者Tが早口で頭の中から言葉を引っ張り出す。渋い顔つきで。苦い過去を思い返すように。コメダの薄暗い照明が、彼の黒いジャンパーに吸い込まれる。七〇デシベルはあろうかというざわつきの波は、彼の後ろに凪いでいく。私は彼の隣で言葉を書き取る。
「批判は自分に戻ってくる」
批判……? 私は考えを巡らす。どういうことだろう。
「自分モナド(充実した内面をもち、自発的知覚を担う単位実体)から他人へ、理解されるように」
口は活発に回転するのに、Tの渋い表情は崩れず止まったまま。
「これまではまわりから見られる自分だった。映画を観ても他人事。それが社会の一員になったら自分事になる。みんな自分、今は自分」
「今度は自分の番……?」私は顔を上げる。
「自分はその場に取り残されている。だから伝える。自分でアピールする」
あっ、そうか! 私は心に思う。〈だからこそ自分が主体となって意見を主張していくということですね〉
…でも、わかるハズがないよな
「俺は入れ歯をつくった時思った。入れ歯は実用性ではない。外見。こういうふうに女性はお洒落するのかと。現代は見かけだけだと思っていた。でもその見かけを追究していくうちに、内面に至るとわかった」
話し掛けながら、Tの眼は遠くを見ている。
「360度狂って、もとの地点に戻ってくると――」
騒然としたコメダの店内が、Tの言葉に吸い込まれる。
「だから私は○○人だったんだ。○○病だったんだ。だから疎外されてるのか。のけ者になっていたのか。ナルホドね。呪われてる。仕方ない――ならそれでいいや、と」
「それって」私は思わず口を挟む。「私の知り合いに、I から we へ、we から they へ、they から I に戻ると言った人がいました。その I に戻ったということですか?」
「そう。360度回って。日本人は180度だけどね」
「どういう意味ですか?」
「日本人は向こう側に行ったらそれきりだから。叫んで終わり」
「たしかにそうですね」
私は日本の戦争映画を思い浮かべる。
〈「言必信、行必果」(これすなわち小人なり)と。この言葉ぐらい見事な日本人論はない。(中略)「やると言ったら必ずやるサ、やった以上はどこまでもやるサ」で玉砕するまでやる例も、また臨在感的把握の対象を絶えずとりかえ、その場その場の“空気”に支配されて、「時代先取り」とかいって右へ左へと一目散につっぱしるのも、結局は同じく「言必信、行必果」的「小人」だということになるであろう。〉
二つの道の消失点
「何も言わずにわかろうとしてもらうわけにはいかない。伝わるようにアプローチしない限り」Tは固い表情を崩さない。
「つまり、三六〇度の自己回帰『わかるハズがないよな』と、それでもわかってもらえるようにアプローチする。この二つを同時に考えるということですか?」
答えを聞く前に、ウェイトレスが閉店を知らせにきた。私達は慌ただしく会計を済ませた。
外に出ると、二月深夜の寒風がコートを激しくなぶる。
聴覚過敏をどのように社会に伝え、心の魔物を落とせばよいのか。一番聞きたい結論を惜しみ、私はまたノートを取り出して話の続きを促した。
「もし本で意見してダメだったら。誰も聞いてくれなかったらどうすればいいんですか?」
「運命の手を待つ。そういう瞬間が人生にあったはず」
Tは寒さに震えながら、辛抱強くつきあう。
「いかに納得するか。あきらめるか。落としどころを探る。自分はこの程度で十分だ、十分だったハズと腑に落ちること」
やはりそうなのか! 安郷さん、I、Kの言葉がTの言葉を通して一つに重なっていく。
「これだけやったんだから。天寧さんは絵も描いて、詩も書いて、ほんとうは満足してもいいはず……」
「私は強迫的になっていると自覚しています」私は引っ張る。「それはトラウマから来ているんです。社会から障害を認めてもらえれば、この呪いは解けると思うんです……」
社会から感覚という生命のランプを否定されることで、ありのままで存在してはいけないという破壊的メッセージを受けた。生きる能力を奪われて。結果、強迫的に障害を承認してほしいと望むようになった……。
「社会の承認を……納得して……棺の前で……目標……理解者……」
あまりの寒さに、ここで解散となった。Tの残したキーワードは、文章化されないまま、寒風に舞う雪のように私の頭に舞った。
ある人が「議論せよ」と諭したように、社会に意見すること。自分はこの程度と納得すること。二つの道の消失点を、落としどころを探らなければ。新しい羅針盤を見るように、私は決意した。
軽々しい言い方になって申し訳ありません。
とあるブロガーの方へ。
あれ以上コメントするのは申し訳ないので、ここに書かせていただきます。
おっしゃるとおり、物語の再構築とは、解釈の変更程度の、軽い意味ではありません。
「解釈」という言葉は適切ではありませんでした。
思考の問題ではなく、心(人間)の回復ということが言いたかったです。
――が、ネット上でいくら文字のやりとりをしても、伝わらないでしょう…。
頭で言葉を弄ぶような、いかにも軽々しい言い方でした。
私は、心に生じる情感と、頭が司る言語が分裂して、連動しないことがあります。
心が切り離されたような、淡々としたしゃべり方になってしまいました。
言葉で言うほど簡単な道のりではないのに。
言葉は難しいです。
顔をつきあわせてじかにやりとりでもしない限り、伝わらないでしょう。
悩ませたこと、申し訳ありませんでした。
こういう物言いをブログでしてるんだろうな…と反省しました。
反省してもなお、自分で気づかない愚かさがあります。
以後、書き込みは控えます。
言葉ではうまく言えないけど、うまく伝わらないかもしれないけど、少しでも苦しみが和らぎますように。
犠牲となった障害難民マイノリティたちへ【ADHD・S子との対話】
障害難民
ADHDのS子の部屋は、暖房の利きが悪く、凍えそうに寒かった。
聴覚過敏手記の冊子を、私は床に並べる。
「トラウマですよ、××事業所の。それで聴覚過敏なんです。フラッシュバックがひどくて買い物にも行けない。もうどこにも。ストレスで△△病も鬱も」
「△△病って歌手○○○○がなったやつ?」
「さあ、その人は知りませんけど。顔とかお腹とかブクブクでしょ。ステロイドで」
「障害難民やて、重複障害」
S子の言葉にピンときて、私は声のトーンを高める。
「それ! クマさんも同じようなことを言ってました。なんだったかなあ……超多重生活困窮者?」
「どの施設も断られた人がそうなるんや」
「そう、社会に受け皿がない。で、ひきこもりにしわ寄せが行く。社会の歪みを映す鏡」
「ひきこもりも仕分けしたほうがいい。ひきこもりでも発達障害の人、病気の人、ニートの人いろいろやろ?」
「あーそれ、クマさんも言ってました!」
「腹立つのは事業所を擁護する側や。発達障害や精神障害は偏見が凄いから、うちらのせいにされる」
うん、と私は頷く。
「目に見えない難病とかあるでね」
ぽろっとこぼしたS子の言葉に、私は身を乗り出す。
「そう、それ! どうすればいいんです?」
「みんな金。金だけ。儲けることしか考えてない。A型事業所は助成金下りるやろ? 国から」
「ああそれも手記に書きました」
「ろくに支援せずに民間に丸投げ。ビジネスやて貧困ビジネス」
「障害者ビジネスですね」
「昔は宗教やった、受け皿が。でもオウム事件で信用なくしたでしょ。今は貧困ビジネスが横行してる。社会に排除された弱者や障害者の弱みにつけこんで金儲けする」
「X就労支援事業所もそうですよね。昔行ってましたけど」
「あそこもう潰れたそうよ」
「えぇ!?」
「社長が考え合わない人切り捨てるからね。ついてけん人がY就労支援事業所つくったって」
「ははあ、それがあのY事業所だったんですか」
「事業所に言っても無駄」S子の舌鋒は鋭くなる。「苦情は国に言わないかん。A型事業所も就労支援事業所も国が認可したんやから。そう弁護士に言われた」
「国って……政府あんなんやないですか」
私は顔をしかめる。
「しかも支持してる人は……。政府と大衆。巨大な二つの権力に挟み撃ち」
「大事件が起きるまでわからんのや。犠牲者が出てやっと気づく」
「はぁ!? やめてくださいよ」
私はため息をついて、手記に手を伸ばす。
「ここにも書きましたけど。『お前が犠牲になったんや』って」
「弁護士に相談せな。権利侵害に気をつけなあかん。権利擁護や」
「ホントそうです」
国家権力の犠牲に
話題は聴覚過敏に移った。
「過敏って、線維筋痛症の人もおるやろ」
「ああ、それも近いですね。痛い」
「配慮できない人に腹が立つ。事業所の介護ヘルパーは質が悪い。デモシカや。選ぶ眼をもたなあかん。でも行政に相談しても『耳栓しやぁいい』ってなるやろ」
「はぁ!? そんなレベルじゃないですよ!」
私は声を荒げる。
「そんな問題じゃ……。冗談じゃない!」
「行政なんてなんッの解決にもならん。全然メリットない、得るものが!」
「得る」にアクセントを置いて、S子は苦虫をかみ潰す顔で吐き捨てる。クマさんと意気投合している、ある市民活動家の言葉を私は思い浮かべる。
〈行政だけではダメ。このままだと人が死んじゃう〉
行政関係者でも身を尽くして支援している人はいる。私は彼らの疲れ切った顔を思い出す。それでもままならない国の現実。
S子は再び聴覚過敏の話題に戻す。
「子どもの声は悪意あって出すわけじゃない。意図的じゃない」
「わかってますけど。子どもの権利はなぜ絶対的に優先されて、それで生活と健康を損なう人の人権は踏みにじられるんですか。みんなが疑問なく支持するあたりまえのものが、絶対的権力の最たるものじゃないですか」
「マイノリティやね。天寧さんみたいに音が嫌な人もほかにいるんやけど。飛行機がうるさいとか。でも国防よ。国家の安全優先。沖縄の人、国防のために犠牲を強いられているやろ」
「まったく同じことを第六章に書きました。沖縄の人もそうですよ。なんでもかんでも国防。その下の、見えないところで人が犠牲に…」
「マジョリティの、公が優先」
「踏みにじられるマイノリティの個? 勘弁してください」
「日米同盟でアメリカの言うこと聞かなあかんと。国家権力や。新聞にあったけど」
「それ何新聞ですか?」
「中日」
「うち朝日やから、右寄りあまりチェックできてないです。中日の意見として、国家権力に従わなあかんと?」
「違う。××裁判に負けたって記事」
「国家権力に従えと事業所の人に言われました。そのことも書いたけど」
私はまた手記に手を伸ばしてパラパラめくる。
超絶マイノリティの人権は
「どうやって人権を回復すればいいんですか」
「LGBTの人も声を上げ始めた」
「声を上げるLGBTの人は『たった一人』じゃないでしょう?」
「化学物質過敏症の人もいるやん、柔軟剤とかの。室外機の音とかで過敏な人も。ブログで発信するしかないんじゃない?」
「誰も見ませんよ。みんな関係ないから。自閉症はマイノリティかもしれないけど、そういう人はけっこういる。自閉症で重度の聴覚過敏はもっとマイノリティ。しかも私の症状は誰もいない」
「インパクトないと見ないよ」
「そんなのないですよ。見えないんですから。どうしたら認識してもらえるんですか」
「それこそヘルプマーク。杖や。私わざと杖ついて歩こうかと」
S子の姿を想像して、私は笑う。
「杖みたいな目に見えるものがないと認識してくれないんですか? 目に見えなくても障害があると想像できない。『眼』がない。どっちが盲目なんですか」
「障害者福祉センターに行ったら肢体不自由の人の補助道具は展示してあるのに、イヤーマフとか発達障害の道具ないでしょ。管理の問題で置けないって言われた」
「はぁ!? 管理ってなんですかそれ?」
「ADHDの人の当事者会あるけど、あそこは忘れ物が多いとか共通問題がある」
S子の話は次々に飛ぶ。
「その共通問題がない」私は脱力する。
「具体的にこう、『拘束された!』みたいなトラブルがないと、役所は取り上げてくれない。医者もメンドクサイからハンコ押すだけ」
「どうしたら声を聞いてくれるんですか? たった一人で……」
「LGBTの人は一人声を挙げて『私も私も』ってなったでしょ。理不尽な思いをした人が声を上げて、数集めてかんと」
「難しいですよ、滅茶苦茶マイノリティですから……。私しかいませんからね。LGBTの人の方がよっぽど仲間が多いですよ」
私はため息をついた。
超絶マイノリティの人は、いったいどうすればマジョリティに相手にしてもらえるのだろう……? 人権を認めてもらえるのだろう?
障害難民の犠牲者たちよ。超絶マイノリティよ。誰かいませんか?
マジョリティたちよ。どうか燃え尽きて消え入りそうな少数者の声を聞く耳を……。
距離感がわからず、人に近づきすぎてしまうのは
人に近づきすぎる
文学会の主宰者がたしなめました。
「苦手な人のに、近づきにいってはいけないよ」
「・・・」
その距離感がわからないのですよ。
そう――人間関係の距離感が。
私が苦手な人に近づいてしまうのは、たいてい「対人恐怖」「初めての状況への恐怖」からです。
相手がどんな人かわからないから、「初めての状況」をなくそうとするのですね。
「初めての対人環境」ほど怖いものはありませんから……。
情報を少しでも多くもって、人間関係の不可解さをなくそうとする、というか。
かつて通っていたA型事業所で、やたら初めての人に話しかけにいって、「天寧さん、近づきすぎて怖い」「神出鬼没」と言われました。
「・・・」
そんなこと言われても、ねえ。
対話するしか…
「相手を知る」しか、自分をコントロールする方法はないです。
そのためには、対話するのが最良の方法です。
対話しないと、相手がどんな人かわからない……。
そんなわけで、対話をしかけていくところが、私にはあるようです。
「同じ場」に立ったときは――という条件つきで。
「同じ場」に立たなければ、つい受動的になってしまうのですが。
まぁ今なんか、ほとんど対話する機会もないのですが。
中島義道の
に影響を受けすぎた、ということもあります。
この国では「集団において個々人の対立を避けるにはどうしたらよいか」という問題を解決することにほぼすべての労力が費やされる。
(中略)<対話>は対立から生まれる。したがって、対立を圧殺することは<対話>を圧殺することである。(166頁)
<対話>はこうした欺瞞的な態度の出現とともに消えてゆく。そこに、すべての人が全体を配慮し、自己の痛みを語らず、他者との差異を語らない淀んだ和やかな空気が流れる。この空気の中で、おそろしいことに、各人は自分の考えをもたなくなる。(191頁)
ある人に話しかけすぎて、ああA型事業所の失敗を繰り返してしまったな、と反省しました。
でもやっぱり距離感がわからない……。
「STIGMA FREE」リニューアルのお知らせ(3) fc2はミラーサイトになっています
数年間、閉鎖していたFC2ブログも閲覧可にして、現在ミラーサイトになっています。
本当は、FC2ブログに完全移転したいです。
- 拍手ボタンがある
- はてなやアメーバのような「会員ID」がなくてもコメントできる
- コメントするときに閲覧不可にできる
つまり、私にとってFC2は、読者の反応を実感しやすく、ブログを継続するモチベーションを保ちやすいのです。
しかし!
どの記事が読まれているか知りたいのに、わからない
のが最大のネック。
現在、グーグルアナリティクスなどで調べる方法を検討中(数ヵ月、いや1年以上かかるかも?)ですが、はてなではコレが簡単にわかるから、問題が解決するまでは、はてなをメインのブログにします。
また以下の理由から、はてなブログは残しておきます。
fc2を使いこなせるようになり、「どの記事が読まれているか」知る方法がわかったら、はてなからfc2に移行するかもしれません。
でもしばらくは、はてなブログを使い続けます。