マイノリティ・センス

自閉スペクトラム症の個人的な表現・分析(聴覚過敏多め)

スイレン

SNS不安 (6)雪崩(なだ)れ込む〈思念〉と〈感情〉

 発信者の細部を捉えると、「上空飛行」のときはノイズだったそのツイートに、「あ、そうなのか」「へーぇ」「面白い」「すごい」「きれい」などと私のハートが立ち上がる。つまり共感して、いいねを押したくなることもある。しかし、この動機は挫かれることが多い。

 

 細部が見えるタイムラインの「低空」では、先に述べたユーザー一人ひとりの〈魂の型〉〈社交表層・外殻〉が、私の心に一気に押し寄せる〈魂の型〉がやけに生々しくて鮮やかなのに、〈社交表層・外殻〉がぶよぶよ膨らんでいて不気味なのだ。このギャップに「ウッ!」と気圧されて、気持ち悪くなってしまう。

 

 何千何万といいね・リツイートされた人々の反応からは、「集合意識の束(束ねられた繊維のような無数の意識の集合)」が、生きた残留思念となって浮遊しているのを感じる。

 

 ここで、「中立的な単なる情報」が少ないことに気づく。

 

 広告など気を散らされる「どうでもいいノイズ」は、それ自体「集合意識の束」のように意識に侵入してくる。個人の意思が希薄なたわいないノイズではあるが、スポンサーが不特定多数の大衆にアピールしようと赤裸々に働きかけている時点で、その情報からは、「集合意識の束」が向かう方向やかたちを受けとる。

 

 さらに、災害情報などリツイートで拡散される公的なニュースも、「中立的な単なる情報」ではなく、人々にリツイートされ、いいねされた時点で、誰かの感情的な判断が入っている。検討し、思考を重ね、確立した意見になる前の、脊髄反射的な感情判断ツイッターには溢れている。

 

 この感情的な反応が、暴力的なまでにむきだしであると私には感じられる。いいねひとつにしても、段階や、程度や、濃淡や、深みがあるはずなのに、それを無視して、情動的な反射が引き起こされるままに露出されている。もっともそれを感じるのは、発信者の「ことば遣い」である(誰がいつ反応したかという文字情報からも)。ツイートに表示されている短い文章の奥に隠された、口語的音感や息づかい、ことばの選び方、句読点の打ち方、改行の仕方などから、〈感情〉が生々しく伝わる。さらにプロフィール画像があれば、ほとんどその人の〈魂の型〉の感触が、私の魂を通して得られる

 

 タイムラインからは、「中立的な単なる情報」ではない人々の心、思惑、想念、思考、意思、意識――ひとことで表すと、〈思念〉〈感情〉が雪崩(なだ)れ込んでくる。その圧力が私の心に重しをかけ、侵食していく。とくに〈感情〉は受け流し、無視するのが難しい。ツイッターアプリに「通知」が表示されるときも、タイムラインという自分のテリトリーに他人の足跡を発見するように感じてしまうときも、人々の〈思念〉〈感情〉に侵入され、自意識の円が凹むようにノックアウトされて、そこから意志を立ち上げるのが難しくなる。タイムラインの「低空飛行」において、この現象は顕著になる。

 

 この原稿を書くために、久々にタイムラインを「低空飛行」して、自分がある状態に陥っていたことに気づいた。何をやっているのかわからない。時間感覚がない。ボーッとしている。現実感がない。夢うつつ。〈感情〉が摩耗している。意思・意志が弱い。ハートが立ち上がらない・喰われている。つまり、自分が乗っ取られ、なくなっていたのだ。人々の〈感情〉に圧倒されると、自己が磨り減る

 

 私にもツイッターに参加したいという思いはある。立ち上がる共感やハートはある。しかし、人々の〈思念〉と〈感情〉を大量に浴び、侵入されるように感じると、立ち上がりかけていたハートは、腰を折られたように萎(しお)れる。

 

 たとえば私には、大ファンの絵描きがいる。その人の絵を見ると心から感動し、癒され、飽きずにハートを注いでいられる。ところが、その絵描きをフォローすると、たった数十文字の文字情報から、生々しい〈思念〉〈感情〉を受けとることになる。芸術家なんて自我が強く、好き嫌いが激しく、感情的な人が多いから、アップされた絵にいいねする前に、私の〈感情〉は芸術家の〈感情〉にノックアウトされ、侵食され、萎えてしまう。作品と人格は別物であると感じる瞬間だ。

 

 

 

 あるとき、思いきっていいね・リツイート・コメントを連打し、ツイッターに積極的に参加してみたことがあった。できうるかぎりハートを奮い立たせ、共感の針を最大まで合わせて、一つひとつのツイートに感情移入したのだ。私の心は温かさに満ち、外界に開かれ、開放的になった。しかし、人々の〈思念〉と〈感情〉が流入しすぎて、私自身の思考と感覚を失ってしまった。鋭敏だった五感は鈍り、頭の働きも悪くなった。足が宙に浮いたように、一時たりとも落ち着かなくなった。体じゅうに自分ではない〈思念〉と〈感情〉のガスが満ちているようで、胸がムカムカして、ついにこうした「過剰接続」の状態に耐えられなくなった。

 

 現在でも、「過剰接続」する人とかかわると、SNSに参加しているときとまったく同じ反応が起きる。そして、息苦しくなって、距離をとらざるを得なくなる。「過剰接続」は、私に自分らしさと安らぎを与えてくれない。おそらく「過剰接続」する人や、SNSに積極的に参加しても平気な人は、自己と他者を隔てる境界が薄いか、あまりないのだろうと思う。